第2話

 気がつけば一人で電車に乗っていた。


(あれ、俺……)


 そこまでの記憶がない。意識が飛んでいたようだ。すれ違った電車の空気を切り裂く音に、はっと目を覚ました。

 ゆっくり呼吸をしながら、辺りを見回した。

 窓の外はまだ明るい。窓の外を流れる風景は、見たことがなかった。


(そうだ、電車に乗ったんだ。いつか乗ってみたいなと思っていたのが、ちょうどあったから……)


 どこまで行くのか試したいと思っていた各駅列車に乗り込んだのが、うっすら記憶の片隅にある。

 窓の外の風景にぼうっとしていると、終点ですとアナウンスが流れていた。


(一瞬寝落ちしたと思っていたけど、もしかしてずいぶん寝ていたのか……)


 時間を見ようにも、夜空は現金以外なにも持っていなかった。

 携帯電話も時計も、警察に証拠品として提出していた。なので、今持っているのは鞄に入れた財布のみ。


「終点です、お忘れ物落とし物のございませんよう、お気をつけて――」


 鉄道員独特の声音でアナウンスが流れ、列車のスピードが落ちた。

 扉がプシュ―っと開き、夜空はホームに降り立つ。駅の名前を確認してみたが、ここがどこなのか、さっぱりわからなかった。

 連絡手段がない今、外の世界と自分とが、切り離されたかのような錯覚になる。

 誰ともつながっていない感覚がすがすがしい。


(たまには、こういうのもいいかな)


 会社から連絡が来たとしても、もちろん出られない。今夜空を縛りつけるものはなにもなかった。

 駅から出て、気の向くまま足を進めてみることにした。大きく深呼吸をすると、海が近いのか湿っぽい香りが肺に広がる。

 シャッターだらけの商店街を抜けて、大きな神社の前を通過する。工事現場の横を歩きながら、小さな川に架けられた橋を歩いた。

 狭い住宅街を抜けると、潮の香りが強くなる。ぬるい風が吹いてきて、海に呼ばれるように夜空は歩を進めた。

 まっすぐ歩いて行くと、突き当りにはキラキラと輝く青い海面が見えてくる。

 とたん、夜空はうきうきした。


「海なんて、いつぶりだろう」


 ざざーんと浜に打ち寄せる波音が聞こえてくると、駆け出すようにして浜辺に入った。

 靴に砂が入るのも構わず、夜空は駆け出して行って青い海を見つめた。

 地元の人が数人、波打ち際ではしゃいでいる。堤防には高校生らしきカップルが幸せそうに寄り添いながら、手を繋いで身を寄せ合っていた。

 夜空はその場にしゃがみこみ、じっと海を眺め続けた。五月終わりの海風は生暖かく、そろそろ夏が来そうだ。


(そうだ、季節を感じたのなんて、ここしばらくなかったな)


 思っていた以上に、波は穏やかだ。太平洋側だから起き七海が来るかと思ったが、そうでもないらしい。

 ずっと泣かないでいたのに、海を見ていたら涙が出てきていた。打ち寄せる波音を聞いていると、自分がなんてちっぽけなのだろうと思わずにはいられない。

 切なくなって、苦しくなって、気持ちが胸の底から押し寄せてくる。

 言葉にできない感情が目から次々と溢れて、ハンカチがびしょびしょになるまで夜空は静かに泣いた。

 誰も自分のことを知っている人がいない土地なのが、夜空の気持ちを軽くさせた。

 暗く寒くなるまで、夕焼けを見ながらボロボロと夜空は涙を流す。


「……悔しい」


 呟いてからは、また涙が止まらなかった。

 泣き止むころには身体はすっかりと冷えて、ガタガタと震え出すほどになっていた。からからに喉が渇いていたが、ペットボトルも持っていない。

 震える身体を抱きしめて浜辺から引きあげたのだが、辺りはすでに暗い。

 来た時には開いていた土産物屋や、定食屋はすっかり閉まり切っていた。自販機もパッと見では見つけられず、夜空は途方に暮れる。


「ヤバイ、これ死んじゃうやつなんじゃ……」


 ひとまず浜から引き揚げて道まで戻ると、道路の反対側で一件だけ店の明かりがついているのが視界に入った。

 連なるように建てられた店の一番端の一角だけ、オレンジ色の明かりがともっている。

 光に集まる生き物のように、夜空はその店に吸い寄せられるようにして近づいていた。

 道路を通り過ぎていく車のヘッドライトが、すっかり夜であることを知らせてくれる。陽が落ちると、暗くなるのは早かった。

 夜空は店に近づき、あかりの入った看板に顔を寄せる。


「海街喫茶……『はぐれ猫亭』?」


 一歩あとずさって外観を見た。白いひさしに書かれたレトロな店名の文字に、同じく白塗り格子枠の扉と格子窓。

 窓の横には小さなベンチが置かれている。中を覗き込むと、色ガラスの釣り鐘型のランプが、オレンジ色の光でふんわりと店内を照らしている。

 心惹かれたのだが、入ろうか入らないかためらってしまった。

 なぜなら、窓に映り込んだ自分がずいぶん泣きはらした顔をしていたからだ。自分の顔は、まるで死人のように生気が無かった。

 中で人が動く気配がして、夜空はそちらにゆっくりと視線を向ける。すると、ぎい、と白い扉が開かれた。

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