第3話

「――寒いでしょ。中へどうぞ」


 髭でも蓄えた老紳士が出てきたのかと思いきや、夜空と同じくらいの年齢に見える、柔和な顔立ちの男性だった。

 小ぶりだがくっきりした二重に、凛々しい眉毛が印象に残る。髪の毛を後ろに一つにくくっているのが、まるで世捨て人か幽世から来た別の世界の住人のように思えた。

 夜空が答えられないでいると、青年はふにゃっと笑った。


「十七時からなんですよ、うちの店」


 どうぞ、と言われると、寒さですくんでいた脚が不思議と動いた。

 中に入ると、クラシカルな濃いウッディー調の店内に、青を基調としたオリエンタルな敷物やクッションがなんとも絶妙に調和している。

 通されたのはカウンターで、まだ店内には誰もいなかった。

 マスターが奥から出てくるのかと思ったのだが、案内してくれたひょろりとした男性が、カウンターの中に入る。

 まさかとは思ったのだが、彼がこの店のマスターのようだ。

 待っていると湯が沸く音が聞こえてきて、それからしばらくして夜空の前にはお水と温かいほうじ茶が出された。

 そして、その横にはおしぼりと小さな保冷剤も。驚いて顔を上げると、にこりと笑う顔が見える。


「今日は、お客さんあんまり来ないでしょうから。サービスです」

「わかるんですか? その……お客さんが来ないだろうなって日とか」


 夜空の問いかけに、男性は首をちょこんとかしげる。長い前髪がさらりと顔周りで揺らめいた。


「わかりますよ。僕、魔法使いなので」


 至極真面目に返されて、夜空は目を丸くした。

 そのあと、ふと全身から力が抜けていく感覚がして、ずっと緊張しっぱなしだった身体が、やっと解放されたかのようにどっぷりと疲れがきた。

 それなのになんだか心は軽くなる。


「ふふふ、……なんですか、それは」


 夜空が思わず笑ってしまうと、マスターがやんわりと微笑み返してくれる。奇妙な間が、逆に心地良い。


「いただきます」


 一口飲んだほうじ茶は、柔らかでフローラルな味がした。

 お茶だけなのに、ほんのりと甘みが口の中に広がっていく。ポットごと出してくれたおかげで、いつまでも温かく、ゆっくりと味わって飲むことができる。


「美味しい」


 口に入れたものから、久しぶりに味を感じた。喉を通っていくのを感じた。温かいものが、胃の中にすとんと落ちていく、不思議な感じがした。

 マスターが予想した通り、開店してしばらくたっても客がやってくる気配はない。レコードの音が静謐な空間にしみわたっていく、独特な時間だった。

 もらった保冷剤を目に当てていると、じんわりと気持ちが落ち着いてくる。

 目の前の人の良さそうなマスターに今までのことを話したくなって、ぽつりぽつりと自分からいきさつを口にしていた。


 知らない人、知らない土地、菩薩のような印象のマスター。

 別世界に迷い込んだような錯覚に陥ったのは、疲れのせいだけじゃない。マスターが自分は魔法使いだなんておかしなことを言ったからかもしれない。

 人に話すのを躊躇うような重たい経験だったが、自分を知っている人が誰もいないせいか、話し始めると溢れるように言葉が出てきていた。

 夜空の話に耳を傾けながら、マスターは「ええ」「はい」「そうなんですか」と当たり障りのない相槌を打つ。

 簡素な返事なのにもかかわらず、言葉尻にはこのお店と同じような温かみがあって、夜空の心をやんわりとほぐしていった。

 保冷剤が柔らかくなるころに、一通り話し終える。マスターは凛々しい眉毛を困ったように下げた。


「酷い目にあっちゃったんですねぇ」

「……こんなに悲しい思いをしたこと、父さんと母さんが死んだ時以来かもしれません。二人とも、事故で亡くなってしまっているので」


 あの頃は小さくてまだ人の死がよくわかっていなかった。あとになって、悲しさが衝撃波のように襲い掛かってきた時に、やっと夜空は悲しかったのだ。

 マスターはゆっくりうなずいた。


「俺は両親のこともあったので、真面目に生きなきゃって思ってたんです。二十六になった時、こんな面白みのない売れ残りは結婚できないって、会社で言われて悔しかったのもあります」


 平均よりも低い身長、童顔というよりも女顔。両親がいないというハンディキャップも、いつの間にか夜空の自信を喪失させていた。

 真面目さ勤勉さだけが売りなのに、成績もそこそこだから学校でも会社でも垢抜けていなかった。

 詐欺師と言えど、彼女と過ごした時間は夢のようだった。


「高望みしすぎたんです。分相応に生きるべきだったのに。焦った結果が、こんなことになってしまいました」


 悔しい、と再度つぶやくと同時に、目頭が熱くなってくる。

 水滴がついた保冷剤で目元をぎゅっと押さえつけてやり過ごそうとした。そんな時、入り口のドアがぎい、と開いて鈴の音がチリンと響いた。

 入ってきた人物を見ると、マスターがクシャっと笑う。


「――光治さん、こんばんは」


 重たい瞼で瞬きしながら夜空もそちらを見る。

 素敵な中折れ帽子に白いステッキを持った老紳士が「こんばんは」と渋い声であいさつする。

 先客の夜空に向かって格好よくお辞儀をすると、カウンターに座った。

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