第5話
耳障りな雑踏を潜り抜けて着いたのは、いつも通っている見知ったバー『セカンド』だった。客の入りは上々で、酒場としてはここら一帯で一番稼いでいると思う。
アーチ上になっている石造りの門構えを潜り抜け、木製の扉を開く。淡い橙色の照明の明かりが、扉の曖昧なすりガラスの先から透けて見える。
扉を潜ると、ダーツが的に当たる、ス、という硬いゴムのような音が聞こえてきた。
入ってすぐにマスターを見、マスターも俺を見る。一人であると指で示して、ダーツ場を見ながらカウンターに座ろうとすると、何者かの声がした。
「よう、メルシャ。久しぶりじゃねえか。お前、何してたんだよ、先週は顔出さなかったじゃねえか。女か?」
爪楊枝を咥えているでかい腹と体のガラルドが近づいてそう言った。生返事を返す。
「ジンのショット。お前は少しは痩せたらどうなんだよ。何だその腹は。腹芸でも仕込むつもりか?」
「お前は冗談のセンスがねえ。マスター。俺にもジョッキでエールを一杯くれ」
マスターは軽く頷き、奥にグラスを取りに行った。表情の掴めない、印象の残りにくい顔立ちをしている。
お前はいつだってそうだよな、と横に座ったガラルドが愚痴っぽく言う。
「俺には仕事も女も回さねえくせに、自分だけはいつもほくほくとした顔で酒場で一杯やりやがる。時々は俺たちみたいなしがない一労働者に一雫の恵みでも分け与えようって気にはならねえのか?」
「真面目に働ける才能は羨ましがる野郎は多いと思うがな」
「そう言うことを言ってるんじゃねえ。生活が楽じゃねえんだよ。お前がどんな仕事してるか知らねえが、金が余ってることはここにいる連中皆が知ってることだ。お前、結構やばい橋渡ってるって話だが。人殺しじゃねえだろうな」
「珍しいかね? 人殺しが」
「冗談にしとけよ、ええ、坊っちゃん」
ガラルドが珍しく真剣な、凄みを利かせた表情で唸るように言う。
「簡単に人殺しでもして、楽に金稼げると思うな。そんなことで生計が成り立つんならな、誰も真面目に働いたりしねんだよ。お前は世間を甘く見てる。いずれ後悔する事になるぞ。近いうちにな」
「肝に銘じておくよ」
新聞記者が一人、酒場に紛れ込んでいる。先ほどからこちらの方をチラチラ眺めている、ワインのボトルを置いて啜るように一人で飲んでいるようだが、先ほどから少しも量が減っていない。カメラは小型で、恐らく眼鏡かポケット、指輪か腕時計に仕込まれているという所だろうか。
ガラルドがけっ、と悪態をつきながら、俺の側を離れていく。瞬間、男がグラスを持ち上げる。何かが一瞬光ったような気がする。指輪か。
どちらにしても、ガラルドが離れてくれて心底から助かった。ダーツ場の方を見ると、少し人もまばらになってきている。ジンが目の前に置かれて、一口啜って、グラスを持って立ち上がる。周囲の視線が一瞬自分に注がれるのを感じる。コンマ何秒と言った、世界の狭間にあるような他愛のない時間。その間にどれだけの情報が飛び交い、人間はそれを処理している事だろうかと一瞬考える。
ビリヤード場に見慣れない若者の集団がおり、一人がキューを拭きながら俺の方を見ていた。懐のナイフに触れる。あの血色の良い頬にこいつを突き立てて横に引いたら、どんな色の血が流れるだろうか。
ダーツ場に立ち入り、棚の上にジンのショットを置いて、一番奥で一人で投げようと思う。数メートルの的に、プレイヤーが次々と投げ込んでいる。自分が通るたびに少し空気が固まり、その後その空気を振り切るように誰かが投げ始める。
矢を手の中で弄び、距離を十分に取って、円形の挑発的な色合いの的に向かって、第一投を投じた。
誰かが肩に手を置いて、俺は投げ終わった後、そいつの顔を振り返って見た。
ヤジン。ダーツ仲間だ。久しぶりだ。
拳を突き合わせ、軽く抱擁する。空を連想させる爽やかなオーデコロンの匂いが首元から香ってくる。
「久しぶりだな。先週はいなかった」
「どこに行ってたんだ?」
聞くとヤジンは親指を奥に向ける。便所の方だ。俺は頷き、矢を見せる。「やるか?」
「勿論。お前は今夜はいつまでいるつもりだ?」
「一晩中。別に寝る必要もない」
「羽振りがいいらしいじゃないか。まあ、俺も同じようなもんだが」
「いつも思うんだが」
的から先程の矢を引き抜き、一投目を投げ直しながら俺は言う。「そう言う情報は誰が漏らしてるんだ? 俺はここの連中皆から目の敵にされてるように見える。俺は何だ? 羊候補なのか?」
羊とは、集団リンチやレイプの対象を指す隠語だ。
ヤジンは苦笑いを浮かべながら、一投目を放つ。無駄のない滑らかな姿勢。矢は糸を引くように素早く飛び、真ん中付近に突き刺さった。まるでそう決まっていたかのように。
「お前が羊候補になるとしても、まず俺みたいな脆弱な奴が先だろうさ。俺はドラッグ専門だしな。腕が立つ評判もない。お前が羽振りがいいってのは、お前の金遣いが荒いのが悪い。市街で昼間から高級ブティックや時計店に出入りしてれば、この国では嫌でも目に入る。そんな奴は限られているからな。お前、最近仕事を終わらせたんだろう? だったら少しは大人しくしておくんだな。興奮が冷めてから、少しずつ金を使うんだ。俺みたいに」
目をつけられないようにする手管は、ヤジンが何枚も上手だった。俺は警察の端くれとも関係を持っているし、それだけでも目を付けられる理由には十分だが、ヤジンはそういう事は絶対にしない。金になりそうであっても、必ず裕福な人間や足のつかない市民番号を持っているかどうかも怪しい浮浪者やホームレスなんかを狙う。小さな値段から開始して、徐々に値段を釣り上げていく。薬は常習性が高く、時々種類を変えながら交渉をするものだから、相手もヤジンの事をドラッグの専門家のような扱いをするようになる。俺はそんな器用な真似が出来ない。目の前に金になりそうな奴がいたらすぐに飛びつくし、それが公民であろうが誰であろうが、誰でも構わない態度でいた。
俺が投げた矢のすぐ側、ヤジンが陰に控えるような場所に矢を突き刺した。
お前が目を付けられるのは、とヤジンが言う。
「どことなく人が良さそうに見える所が原因の一つかもな」
冗談言うな、と俺は言い吹き出した。投じた矢が逸れ、ポイントを失う。
冗談じゃないさ、とヤジンが繰り返す。
「お前は自分が思ってる程、他人を拒絶しきれていない。そこが隙なんだ。ガラルドみたいな真人間気取りの連中がお前なんかに目を付けざるを得ないのは、お前がそっち側に見えないからだ。見えないのに羽振りがいいってのが、彼らには解せないのさ。俺みたいに見るからに怪しそうな人種とは違ってな」
俺が矢を投じる前に、ヤジンが投じた矢が、最後になっていた真ん中のスペースを埋めた。
無くなった真ん中の隙間を見ながら俺は言う。
「俺は鏡を見るべきなのかもな」
「それは言えてるな。冗談にしては的を射ている」
俺が最後に投げた矢は、目標を大きく外れて、木の壁に勢い良く突き刺さった。ジンを飲み干し、俺とヤジンはテーブル席に移った。
夜が更けるまで飲み、心地の良い酩酊感に浸りながら、最後に覚えているのは、ヤジンが俺を観察するような目つきで見ている時の、その表情だった。俺は猫のプッシーの顔を思い出し、束の間目を瞑った。
カメレオンの憂鬱 パラークシ @pallahaxi
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