第4話


 電話が鳴り、俺は目を覚ました。一つしかない置き時計を見ると、夜光塗料が光を放っている。冷たい空気が窓辺から漏れ入ってきていて、プッシーはそこにはもういなかった。見ると、餌入れを弄んで、こちらを向いてにゃあと言っている。


 夜の八時丁度だ。うめき声を上げながら俺は身を起こす。電話は執拗になり続けている。黒い電話が跳ねるかのような、けたたましい警告音。眠っていても起こされるように、あらかじめそう設定しておいた物だ。


 俺はプッシーの頭をそっと撫でてから、受話器を手にとる。もしもし?


 暫くの間、沈黙が流れる。ノイズのような、埃を連想させる音。不快な音だ。電話の主が躊躇しているか、大切な要件の前に緊張して声がすぐに出せないでいるか、どちらか。どちらにしても、いや、何にしてもこういう手合いは他人の時間を食っても平気でいられる手合いと相場が決まっている。切り捨ててしまうに越したことはない。


 俺はすぐに受話器を卸そうとしたが、聞き知った声がしたので、その手を寸前で止めた。サラの声だった。


 俺は受話器を再び耳にあてる。粘り気が少しある。アルコールで拭かなければ。


「もしもし」


 奇妙に艶っぽい声を上げて、サラが息を吐いているのが聞こえてくる。その吐息の匂いや暖かさまで伝わってくるみたいで、少し不愉快に感じ、耳を離す。


「あたし、今、何してると思う? メルシャ」


「何って、ナニでもしてるんだろ」


「したい。ねえ、今すぐそっち行ってもいい?」


 今夜はこれから酒場に出るつもりだった。久しぶりにダーツがしたかった。ジンも飲みたい。


 悪いんだけど、と俺は他所行き用の声を出して答える。


「今日はもうお終いにするつもりなんだ。色々と。だから予定も入れられない。ナニもなしだ」


「けち。タマの中身が空なわけ? そんな訳ないでしょ。最近やったのって随分前だし。ねえ、一人でやっても寂しいだけよ。暖かくなりましょう。今日も寒いし」


「猫が呼んでるんだ。悪いけど切るよ」


 ああ、あの卑猥な名前の猫のことね、と言ってから、サラが言う。


「ねえ」


「なんだ」


「なんか、変な音、しない? 最近、あんたんにとこに電話かけると、変な音が混じってる気がするのよねえ。気のせいかな」


 俺は首の後ろのあたりが冷え込んできたような、薄寒い感触を覚える。汗まで掻いているみたいだ。俺は言う。


「気のせいだろ」


「そう? まあ、ならいいけど。何か気になっちゃって。ねえ、どうせ飲みにでもいくんでしょう? どの店で飲むの? 私も合流するから。久しぶりに飲みたいんだ」


 俺はプッシーの催促をかわしながら、冷淡な口調を努めて出し、それから電話を切った。欲望のままに生きている女だ。ほどほどにしておかなければ、こちらの人生まで喰われかねない。保守的な自分がそう囁いている。


 プッシーの餌入れに餌を入れ、山羊のミルクを継ぎ足した。水を入れたトレイもその横に置いておく。


「また少し出てくるよ。留守番よろしくな。プッシー」


 にゃあ、と猫が返事をする。女の股の名前を付けられたとは知らない、哀れな哺乳類。


 それを言うのであれば、酒の為にジャンパーを着込む自分は、それ以下の動物であるような気がした。少なくとも他の生き物たちは、生きると言うことを人間たちよりもよく分かっている。糞をして、寝ることだ。そして思いつきのように食べること。


 俺がするこれは、こういう人間的な活動はーー彼らからすれば無用の長物でしかない。二丁目を過ぎたあたりで、小雨が降り始め、俺はジャンパーのフードを持ち上げた。


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