【2】

 ――ようやくか。俺は小さな溜め息を零す。

「いつまで机に突っ伏してんのよ。こちとらもう暇すぎて暇すぎて、アンタの顔と腕に落描きしまくってあげたんだから」

「みたいだな。相変わらずイタズラが幼稚過ぎる」

 半袖シャツの袖先から伸びる小麦色に焼けた両腕の随所に、黒いマジックで描かれたと思しき模様やらイラストやらが点在している。

 仮に描かれた絵が綺麗ならば、まあファッションタトゥーとして残したままでいようとも考えたが。

「これは? ネコ?」

「どう見てもテナガザルに決まってるでしょ?」

「じゃあ、こっちはゾウか」

「クレオパトラよ、なんで動物が出てくんだか」

「じゃあ、この形からして……リンゴ! ミカン! 或いはオレンジ!」

「はぁ……国会議事堂。アンタの目は節穴なの?」

 節穴なのはお前の方だよ! 喉から出かけたツッコミをグッと飲み込んで、代わりに乾いた笑みを浮かべて、声のする方へと振り返る。

 わかってた事じゃないか、この幼馴染の美術センスが壊滅的な事くらい。

「ちなみに、ちゃーんと油性で書いてあげたから、エッヘン。この天才女優、日向ひなたれいの直筆よ、感謝なさい」

「こらこら胸を張るな胸を。見てるこっちが泣きたくなってくる」

「へぇ~、アンタってば同情してくれるんだー、嬉しいね~」

 フフッと微笑を漏らしながら、天才女優などと嘯く幼馴染は振り向いた俺の両頬に手を添えて。

「そんなアンタにアタシから、ご褒美の目覚ましこうげきー、ウリウリ~♪」

「ひたいひたい! やめろ馬鹿! これウリウリ~じゃなくて、グリグリ~になってるから!」

「これで音を上げるなんて、だいぶほっぺたが凝ってるようですね~、フフフ♪」

 抗議の声をあげてるにも関わらず、真っ向の少女は悪魔めいた一笑を付したまま、一向に攻撃の手を緩めようとしてくれない。

 握り拳で両頬をグリグリされるのが、こんなに痛いなんて。自ら招いた災厄。軽率に口を滑らせた事を後悔する。

「フンッ、これに懲りたら、一拍置いて喋る癖をつけるように。いいわね?」

 忠告を残して、やっと俺の頬を磨り潰していた拳が離れる。

「アグレッシブ女子なアタシからの知的なアドバイスよ。ありがたく受け取りなさい」

 知的な女性は自ら知的とは名乗らない。というか、アグレッシブ? 暴力の間違いでは? そんな俺の内なるツッコミも露知らず、莉が教室後ろにある手つかずの黒板に向かう。

「さてさて、影山かげやまりょう。アンタもしっかり目を覚ましたところで――」

 止まない蝉時雨の中に、チョークの擦過音が小気味よく響き渡る。さあっと夏草のそよぐ音が交じわり、その度に特有の青々しい匂いが鼻をくすぐり、その余りの心地よさに呆けてしまう。

 今日も今日とて、頭の右側に束ねられた彼女の長い金髪は、生き物のように上下に跳ねている。ぴょこぴょこ、ぴょこぴょこ。背丈が小さいから、尚更子どもっぽくみえてしまうが、もう迂闊に口に出したりはしない。

 つくづく思う。言葉というのは一度発したら最後、救いにもなれば災いにも呪いにだってなり得る。どこぞのゲームの技で見かける「ゆびをふる」みたいなものなのだ。

 まあ受け手を意識さえすれば、大抵意図した通りに意思疎通は適うのだけど。

 念の為宣言しておくが、俺だって普段は口は堅い方だ。むしろ無言を貫く事がほとんどである。こうして軽はずみに話すのも、目の前の幼馴染含めて親しい間柄の人間に対してだけだ。

「あー、まーたよそ見してるー」

 いつの間にか窓の外に広がる長閑な風景に目を奪われていた事に気付いて、慌てて頭を向け直す。と同時に、不思議と爽快さを帯びた風がクーラーのない一室に吹きすさんで。

「さてさて! これから何して遊ぼうかし……ら……」

 俺にとってはありがたい風だった。涼しいし心地良いし。

 けれども、彼女も同じ所感を抱いたとは限らない。なにせ吹きすさんだ風が、チャコールブラウン基調のチェック柄が入ったプリーツスカートを、イタズラに巻き上げたのだから。

「……見た?」

 恐ろしいくらい満面の笑みを浮かべる莉に、首を左右に振る。

「へぇ、あんな食い入るように見つめておいて?」

「いやいや、誰がお前の下着をガン見するかよ」

「ん? アタシまだ下着だなんて、一言も言ってないけど?」

 にこやかな莉の返答に、俺の首元がたちまちに涼しくなった。風が収まってるにも関わらず。

「っく、ううっ! わりぃ莉。俺ちょっとトイレ!」

「ああっ! ちょっと待ちなさい! てか、トイレ反対方向だし!」

 わかってるよ。だから校舎から抜け出そうと、昇降口目がけてダッシュしてるんじゃないか。

「こらー、逃げるなー! 逃げるは恥なんだからー!」

「お前に逃げるなって言われて、誰が待つかよ! やーい鈍足ー!」

「くぅー! ぜーったい捕まえてやる! でもって、今日一日アタシの願望にぜーんぶ付き合ってもらうんだから!」

「やれるもんなら、やってみな!」

 ああ、結局こうなる。今日も今日とて、また似たりよったりの下らないやりとり。

 なのにどうしてだろう。飽きないどころか、不思議と居心地の良さを感じているのは。

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