6.偽善者
……ああ、イライラする。
何もかもにイライラする。
「北川 真理さん、前へ来なさい」
国語教師の毒島が、あたしの名前を呼んだ。クラスメイトのみんなが見ている教室で、あたしは毒島を睨みながら席を立ち、教卓の前へと歩いていった。窓ガラスに、あたしの橙色のツインテールがうっすらと写りこんでいるのを、目の端に盗んでいた。
「……………………」
毒島はあたしが隣に来ると、あたし以外のクラスメイトへ語りかけた。
「みなさん、よくお聞きなさい。この北川さんは、今日もまた宿題を忘れました。これで三度目ですよ、三度目。『仏の顔も三度まで』という言葉があるように、さすがに優しいこの私でも、これだけのミスは見過ごすことができません」
そうして、毒島はあたしの方へ目を向けた。それはあたしの大嫌いな……じとっと湿った、気色の悪い視線だった。
「いいですか?北川さん。社会人になれば、最低限の提出物が期限以内に出せないなんて、ありえません。これはマナー以前の問題です。常識があまりになさすぎる」
「……………………」
「あなたがもし私の部下であれば、即刻クビにしております。常識のない人間に、お給料を払うほど社会は優しくありません。そんな人間は社会にいりません」
「……………………」
あたしは、スカートの裾をぎゅっと握り締めた。目には涙が浮かんでいて、視界がだんだんとぼやけ始めていた。
「あら?また泣くのですか?北川さん。泣いたから許してもらえるという考え自体が、情けないことだと知りなさい。私は“あなたのため”を思って言っているのです。きちんと心に受け止めて、反省なさい」
「……………………」
「さ、北川さん。あなたの大切なクラスメイトたちに謝罪をなさい。あなたが宿題を忘れたことで、私はあなたを叱らねばならなくなり、大事な授業が2分も潰されてしまった。そのことを、クラスメイトたちに申し訳ないと思いなさい」
「……………………」
あたしは閉じた口の中で歯軋りをしながら、クラスメイトたちの方へ身体を向けた。
彼らの反応は、様々だった。苦々しい顔でうつむいている者、「早く終われよ」という苛立ちから眉をしかめている者、素知らぬ顔で別の教科の宿題を進める者と、様々だった。
でも、反応は様々あれど、共通している点がひとつあった。それは……誰一人として、あたしの方を見ていないということだった。
「……宿題を、忘れて、すみませんでした」
あたしがか細い声で謝罪の言葉を延べると、隣から毒島が「違います」と言って横やりを入れてきた。
「『宿題を忘れた上に、みなさまのお時間を取らせてしまって申し訳ございません』と、そのようにおっしゃい。先ほど私が言いましたでしょう?時間を取らせてしまったことを謝罪なさいと。もう忘れたのですか?そんなことさえ」
「……………………」
「それに、『すみません』だなんて言い方もありえません。『申し訳ございません』と言うのが正しい日本語です。言葉はきちんと、正確に話しなさい。いいですね?」
「……………………」
「返事もしないだなんて……全く呆れますね。さあ、早く。これ以上あなたのために時間は割けないんですから」
「……………………」
あたしの目から、ぽろっと大粒の涙が溢れた。それが頬を伝って顎にすべる。
「………しゅ、宿題を忘れた上に、み、み、みなさまのお時間を取らせてしまって、申し訳、ございません…………」
「もっと大きな声で。そんな蚊の鳴くような声では、教室の後ろまで届きませんよ」
「……宿題を、忘れた上に、みなさまのお時間を、取らせてしまって申し、訳ございません……!」
「言葉をぶつ切りにしない。もっとすっと流れるように、ハキハキ言いなさい。本当に謝りたいと思っているなら、そんなこと簡単にクリアできるはずです」
「……宿題を忘れた上に、みなさまのお時間を取らせてしまって、申し訳ございません……!」
「もっと胸を張って、姿勢を正しく!全く……あなた本当に高校生ですか?そんなマナーもひとつクリアできない状態で、よく今まで生きてこられましたね」
「……………………」
「さあ、早く!もう一度!」
「うるさい!!黙れよクソババア!!」
ついに堪忍袋の緒が切れたあたしは、とうとう口から怒号が飛び出していた。
毒島もクラスメイトもぎょっとした顔で、あたしを黙って見ているだけだった。
「……………………」
昂る気持ちを抑えられなくなったあたしは、目の前にある教卓を思い切り蹴飛ばした。
だーんっ!!と、教卓は激しい音を立てて倒れた。何人かのクラスメイトは「わっ!?」だの「きゃっ!!」だの声を上げてびくついていた。
そして、毒島にもクラスメイトにも背を向けて、教室の扉を開けてそのまま出ていった。
「北川さん!どこへ行くの!?戻ってらっしゃい!」
背中越しに聞こえる毒島の言葉を無視して、あたしは走って逃げた。
視界が滲んで足元が全然見えないせいで、思わず転びそうになりながらも、あたしは走るのを止めなかった。
「はあ……はあ……」
息を切らし、よたよたとたどり着いた先は、1階から2階に続く階段の裏側だった。ここはいつも暗くて誰も来ない。だから何かあると、いつもここに来る。
「……う、うう……ぐうっ……!」
そして、またいつものように三角に座って、歯を食い縛りながら泣いた。
握り締める拳の中は、爪が手の平に食い込んでいて、じんわりと痛む。
「うう!ううう……!」
イライラする……イライラする……イライラする……!!
あのクソババア……!気持ち悪い!
上手く言葉にできないけど……なんか、なんか嫌だ!!あいつは偽善者だ!
「はあ……!!くっそ、ちくしょう……!」
あたしは下唇を噛み締めて、目をぎゅっと瞑った。
暗い階段の下で、自分の肩を掴んで、ぎりぎりと歯軋りをするばかりだった。
「…はい、はい。ええ、今は家に。はい、はい……またですか。ええ、わかりました。はい、きちんと私からも言い聞かせておきますので。はい、いつも申し訳ありません。はい……失礼します」
廊下にいるママの声が、うっすらとあたしの部屋まで聞こえてくる。
あたしはそれをシャットアウトするために、布団にくるまって目を瞑る。
「真理……」
部屋の扉を勝手に開けて、ママがあたしの部屋に入ってくる。そしてママは、ため息混じりにあたしへ声をかけてきた。
「あなた、また授業中に抜け出したみたいね」
「……………………」
「先生にも、クソババアだなんて言ったんですって?」
「……あんなやつ、先生じゃない」
「真理」
「あたしにあんなことするやつ、先生なんて認めない」
「真理、あんたいい加減にしなさいよ」
「……………………」
「なんで自分が怒られたか、分かってるわよね?」
「……………………」
「宿題を!!ちゃんと出してないからでしょ!?あんたなんっ回言わせれば気が済むの!?」
ママの怒号が、部屋の中に響いた。
「あんたが宿題を出せば!先生はなんにも言わないのよ!あんたがちゃんとしてないからこうなるの!」
「……………………」
「先生なんて認めないって、よく言えるわね!どの口が言えると思ってんのよ!」
「…………わかってるよ」
「……………………」
「わかってるって、そんなことくらい」
「……こら、真理。出なさい」
ママの声は、突然低くなった。そして、あたしがくるまっている布団を、強引にはがそうとする。
「真理、出なさい。今すぐ出なさい」
「やだ」
「真理、ぶたれたいの?」
「いやだ……!止めてよ!」
「真理!あんたホントに何考えてんの!!」
パーーーンッ!
……右頬を、ママから思い切りビンタされた。
「毎回毎回!!私と先生を困らせて!!どうしたいわけ!?」
「……………………」
「いつもいつも!問題ばっかり起こして!!なんで普通にしてられないの!たかだか宿題ひとつも出せないで!」
「……やった」
「なに?」
「宿題は、やったの」
「……ええ?じゃあなんで出さないのよ。やったんなら出せるでしょ?」
「でも、やってる途中で、水を溢したから……びしゃびしゃになった」
「……?え?だから何よ」
「いや、びしゃびしゃになったから……出せなかった」
「……あんた、何言ってるの?ホントにどうかしてるわよ。びしゃびしゃになったなら、また先生から貰えばいいじゃない」
「……………………」
「はあ……なにその、意味わからないこだわり」
「……………………」
「私、もう疲れた。勝手にしなさい」
そう言って、ママは部屋を出ていった。
……あたしがADHDだと診断されたのは、中学一年生の時だった。
ADHD……正式名称は、注意欠如・多動性障害。いわゆる発達障がいの一種に数えられるものだった。
注意力が散漫で、かつ落ち着きがない。激しい感情をコントロールできずに、そのまま表に出してしまう。またその逆に、自分の感情を上手く理解できずに、思っていることと真逆のことを言ってしまったり、言葉足らずで相手に意味が伝わらなかったりする。
そのせいで、幼い時からあたしは癇癪持ちでよく他人と喧嘩することが多かった。そのため、クラスメイトや先生たちから疎まれていた。
小さい内は「子どもだから」で片付けられていたけど、中学生になってもそれが治らず、いよいよ親に心配されたあたしは、精神科を受診することになった。
そうして、あたしが発達障がいであることが判明した。
「……………………」
布団をぎゅっと握りしめて、そこに顔を埋める。
(イライラする……イライラする……!)
唇が震えて、涙が滲む。
(毒島にも!クラスメイトたちも!ママにも!そして、そして……宿題のひとつも満足に出せない、あたし自身にも!!)
何もかもに対するムカつきと苛立ちを抱えて、あたしは震えて泣くばかりだった。
……次の日、あたしは足を引きずるようにして登校した。
本当は休みたかったけど、ママは許してくれなかった。
もう何もかもが上手くいかなくて、イライラがどんどん募るばかり。いつもいつもピリピリしていて、心が休まらない。
「……………………」
「北川さん……あなたは本当に常識のない人ね」
そして、めちゃくちゃ最悪なことに……あたしはお昼休みの最中、廊下で毒島に捕まってしまった。
またネチネチと口うるさく小言を言う。
廊下を通りすぎる人たちは、ちらちらとこちらを見ながらも、特にそれ以上何もしてこなかった。
「授業を抜け出してサボるなんて、非常識もいいとこです。あなた、もう高校生と名乗るのはおよしさい。きちんと小学校から学び直してきた方がいいですよ」
「……………………」
「それに、私に向かってあの暴言……本当に信じられません。人として最低の悪口です」
ああ……もう、いや。また泣きそうになってる。
あたしは昔から、感情が昂ると涙が出てくるタイプだった。特に怒ってる時は涙が出やすくて、毎回いつも怒ると同時に泣いている。
(このクソババアの目玉を潰せたら、どんなにスカッとするだろうか)
心の中で、何回もこの毒島を殺した。思い付く限りの残虐行為を、このババアにしてやった。そうでもしないと、心のバランスがおかしくなりそう。
「もうあなたは、留年の候補に入れておきますからね。成績も授業態度も最低なら、当然の報いです。恥だと思いなさい」
「……………………」
……怒られてから約10分。いよいよまた、あたしの怒りが沸騰してしまいそうな状況に陥った。
このババアを殴りそうになるほど拳は震えていて、閉じられた口の中で、歯はギリギリと鳴っていた。
「あのー、毒島先生」
……その時だった。
毒島の後ろに、一人の男子生徒が立っていた。
あたしはそいつの顔を見た瞬間……すぐに、誰だかわかった。それは、カウンセリング部の部員のやつだった。
右腕には、あたしが噛んだ箇所に包帯が巻かれていた。
毒島はその男を見下ろして、「何かしら?今取り込み中なのですけれど?」と返した。
「いや、先ほど教頭先生が毒島先生を探してらっしゃったので、お呼びしたんです」
「教頭先生が?」
「何やら、急用とのことですよ」
「……………………」
毒島はあたしの顔をちらりと見ると、すぐに顔を背け、あたしの元から去っていった。
カウンセリング部の男は、遠退いていく毒島の背中を眺めながら、腰に手を当てて「まあ、ウソだけどね」と一言呟いた。
「……なに?今のウソなの?」
あたしがそう訊くと、男はこちらへ顔を向けた。
「あんまりにも君にネチネチ言うもんだから、つい見かねてね」
「……ふん、これで助けたつもり?粋がんないでよ、偽善者」
「いいよ、君を助けたつもりはない。ただ単純に、俺があの人を嫌いなだけだ」
「……………………」
「毒島先生って、何かにつけて『あなたたちのため』とか言うけどさ、あれ、俺すごく気持ち悪く感じるんだよな。全部ウソくさくって、聞いてらんないよ」
「…………!」
「さて、じゃあ俺は帰るわ。それじゃ」
そう言って、男はあたしに背を向けようとした。
「ねえ」
そこを、あたしは声をかけて止めた。
男は背中は前を向いてるけど、顔だけは少し後ろに傾けて、「なに?」と問いかけてきた。
「……………………」
「……?なに?どうしたの?」
「……あんた、毒島が気持ち悪いんだよね?」
「うん、まあね」
「……なんで?」
「え?」
「なんでそう思うの?」
「いや、なんでも何も、今話したとおりだよ」
「……………………」
「あの人はただ、自分の言葉に酔ってるだけさ。『いいことをしてあげてる』って思ってる。君流に言うなら、偽善者だね」
「……………………」
「ああいうタイプは、本当は心の底で自信がないんだ。だから自分が立派な人間であることに必死になる。ほら、過激派のヴィーガンとかフェミニストとか、そんな感じじゃん?自分の善意を押し付けて、他人を貶してでも立派であろうとする」
「……………………」
「偽善者の言葉には、いつも矛盾かある。この前毒島先生は、宿題を忘れた人に対して『お前を叱るのに大事な授業の時間を費やした。クラスのみんなに謝れ』って言ってたけど、本当に授業の時間を惜しみたいなら、その人を謝らせる時間さえ惜しむはずだ。授業の終わりに、別で時間を作ってその人に注意する……。その方がよっぽど合理的だ」
「……………………」
「言ってることと、やっていることに矛盾がある。それが偽善者のだいたいのパターン」
……あたしは、正直びっくりした。あたしがぼんやりと思っていたことが、そっくりそのまま言葉にされていた。
なんとなく『毒島は偽善者だ!』って思ってはいたけど、なぜそう思うのか、具体的にできていなかった。だからこいつに言葉にされると、曇っていた心が晴れやかになるような……そんな気分を味わった。
キーンコーンカーンコーン
その時、昼休みを終えるチャイムが鳴り響いた。
「もういいかな?俺は帰っても」
「……………………」
あたしが何も答えないでいると、男はニッと口角を上げて言った。
「もし……まだ続きが必要だったら、放課後、カウンセリング部に来ておくれよ」
「……………………」
そうして、そいつは去っていった。
あたしはその背中を、じっとただ黙って眺めていた。
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