5.赤い瞳の少女
……その日の朝は、しとしとと小雨が降っていた。
俺は傘をさしながら、その降りしきる雨をなんとなく眺めつつ、学校へ向かっていた。
現在の時刻は、午前7時半。学校の正門をくぐっても、人影はほとんどない。誰もそんな時間には登校してこないのだ。
時折、早めに来ている虚ろな目をした先生や、朝練をうざがっている運動部を遠目に見つけるくらいで、基本は廊下も教室もしんとしている。
俺はそういう、静かな時間帯に登下校するのが好きだった。誰にも気を遣わなくていいし、この静けさは居心地がいい。
スニーカーから上履きに履き替えて、朝の冷たい空気にあてられながら、教室へと向かう。
「センセー、俺に教えてください♪優しさはテスト範囲になりますか?♪」
俺は小さな声で、陽気に歌を歌う。
「センセー、俺に教えてください♪愛は採点できますか?♪」
そうして気分揚々に口ずさんでいたその時……廊下で妙な声を聴いた。
「……うう、ううう……ぐす……」
音は小さいが、明らかにそれは、すすり泣く声だった。
高めの声質からして、おそらく女性だと推測できる。
「すん……すんすん、う、くう……」
鼻をすすり、押し殺すように嗚咽するその声は、聞いていると胸が苦しくなるほどに悲痛だった。さっきまで陽気に歌を歌っていたのが、なんだか申し訳なくなってくる。
(どうしたんだろう?一体誰が……?)
まさか幽霊……?と、俺は一瞬勘繰ってしまった。それほどまでに、その声は消え入りそうな雰囲気を持っていた。
「……………………」
俺は、跳ねる心臓を抑えながら、声の主を探してみた。音を立てないようにおそるおそる廊下を歩き、息を浅くするために口を尖らせた。
「……!」
1階から2階に続く階段の裏側に、こっそりと三角に座って泣いている女子生徒を見つけた。
「うう、うぐう……!」
近くに来たからか、余計に彼女の悲しみが伝わってくる。肩を震わせて、橙色の長いツインテールを……それ以上やったら抜けてしまうんじゃないかというほどに、強く握り締めていた。
「……………………」
俺が一歩前に出ると、迂闊にもぱたん、と足音が鳴った。
それに気がついた彼女は、びくんっと肩を揺らして、直ぐ様こちらに振り返った。
彼女の真っ赤な瞳に、涙が溢れていた。
歯を噛み締めて、眉間にぐっとしわが寄っている彼女の表情は、激しい悲しみと同時に、強い憎しみも感じられた。
「……いでよ」
その綺麗であるが……気が強くギラリとした瞳で、彼女は俺を睨んだ。
声は震えている上に、掠れてしまって小さく、俺には少し聞き取れなかった。
「え?な、なんだって…………」
「……ないでよってば」
「ご、ごめん、なんて言った?」
「見ないでよって言ってんでしょ!日本語わかんないの!?」
彼女の怒号は、静かな廊下の奥まで響き渡った。
「……………………」
俺は何も言うことができず、そのままそこに棒立ちになっていた。
すると、彼女は小さく舌打ちをして、すくっと立ち上がると、そのまま階段を駆け上がろうとした。
俺は咄嗟に「待って!」と叫び、彼女の背中にこう告げた。
「な、何があったの?俺、もし力を貸せるなら……」
「うるさい!あっち行けよ偽善者!!」
だが俺の言葉は、彼女の罵声にかき消されてしまった。
彼女は振り向きもせず、そのまま階段を素早くかけ上がっていった。
俺はただその場に立ち尽くすだけで、何もできないまま、彼女がいなくなるのを見届けるしかなかった。
「……この手紙があなたの手に落ちる頃には、私はもうこの世にはいないでしょう」
国語の授業中、クラスメイトは席を立ち、教科書を持って書かれている小説を音読していた。
「私は妻の留守の間に、この長いものの大部分を書きました。時々妻が帰って来ると、私はすぐそれを隠しました」
その音読は、文章の切りが良いところで人が変わっていく。さっき読んでいたのは斉藤くんだったが、次は渡邉さんだった。
「……………………」
俺は頬杖をつきながら、そのクラスメイトたちの音読をぼんやりと聞きつつ……頭の中はまるで別のことを考えていた。
『うるさい!あっち行けよ偽善者!!』
(……一体彼女は、何があったというんだろう?)
朝方に見かけた瞳が赤い少女の顔が、ふっと頭に浮かぶ。
(朝方に……あんな号泣することってあるだろうか?学校へ来る前に嫌なことがあったから泣いてたってこと?それとも、昨夜嫌なことがあって……それを思い出して泣いてたとか?)
いろいろと考えを張り巡らしてしまうが、結局それは想像の域を超えない。彼女本人に訊かねば、本当のところはわからない。
(だけど、下手に本人へ訊きに行くのも嫌がられそうな感じだよな。そっとしておくべきか……。いやしかし、ああいう場面を目撃しておいて、何もしないのも……)
「はあ……困ったなあ」
「何が困ったの?中原くん」
俺の独り言に対して、隣の席にいた東野さんが反応してきた。
「ん……いや、なんでもないよ」
「うそー?困ったって言ってて、なんでもないはさすがに変じゃない?」
「む……そうだね、確かにおかしいかも知れない」
「何かあったの?」
「……うん、確かに気になることはひとつ。でもちょっとデリケートな内容だから、今は言えないや」
「そっか、中原くんカウンセリング部だもんね。いろんな悩み相談受けてるだろうし、いろいろ思うところあるよね」
「うん、ごめん」
「ううん、いいの。何か手伝えることあったら、遠慮なく言って?」
「ありがとう、東野さん」
彼女はふわっと柔らかく、太陽のように明るい笑みを俺へと向けた。
「そうだ、中原くんのカウンセリング部、どんどん反響が出てきてるみたいだね」
「そう?」
「うん、評判いいって聴くよ?どんな悩みも真面目に聞いてくれて嬉しいってさ、私の友達もそう言ってた」
「そ、そっか、なんか照れ臭いけど、評判いいんなら嬉しいね」
「ふふふ、やっぱり私、間違ってなかったでしょ?」
東野さんはくすくすと、肩をすくめて微笑んだ。
「ちょっと、そこの二人」
その時、国語の毒島先生から注意を受けてしまった。彼女はジトッとした瞳を俺たちに向けて、意地悪な言葉を投げ掛けた。
「私の授業が、そんなにつまらないかしら?」
「……失礼いたしました、毒島先生」
「ご、ごめんなさい……私、そんなつもりじゃ……」
「それなら、私語は慎んでもらいたいわね?東野さん?」
「はい……」
「それじゃあ次のところを、中原さん。読みなさい」
「はい」
先生に指名された俺は、教科書を持って音読した。
「……私が死んだ後でも、妻が生きている以上は、あなた限りに打ち明けられた私の秘密として、すべてを腹の中にしまっておいて下さい」
「……うん、それはちょっと気になるね」
放課後の、カウンセリング部室内。
一通りの経緯を西田さんに話終えると、彼女は悲しそうに眼を伏せてそう言った。
「その女の子がどんな境遇なのかは分からないけど、よくない状況なのは確かだよね」
「うん、そうだと思う」
俺はあぐらをかきながら、腕を組んだ。
外でしとしと降る雨音が、部室内にも聞こえてくる。
「……西田さんだったらさ」
「うん?」
「“悩みあるなら聴くよ?”って言われるのって、鬱陶しい?」
「……んー、人によるかも。苦手な人だったら鬱陶しいし、好きな人だったら嬉しいかな」
「そっか、そりゃそうだよね」
「どうして?中原くん」
「いや、その女の子の元へ俺から向かおうかと思ったけど、迷ってるところなんだ」
「……………………」
「あんまりお節介しすぎるとうざいだろうし、かと言ってあれだけ泣いてるのを見て、無視するのも気が引けるし……」
「……無視していいんじゃない?」
「え?」
西田さんは俺から視線を剃らし、どこか虚空を見つめていた。
「せっかく中原くんが声をかけてあげたのに、偽善者だって一蹴する人なんか、ろくでもないと思う」
「……………………」
「意地悪な人のこと、わざわざ助けなくてもいいんじゃない?」
「……西田さん」
──ザーーーーーー……
雨音は時間が経つにつれて、だんだんと激しさを増していった。
俺はなんだか、西田さんのいつもとは違う雰囲気に飲まれて、それ以上何も言えなかった。
「……………………」
ふとスマホを見ると、既に夕方の六時を回っていた。日はとうに落ちていて、窓の外はとっくに仄暗かった。
「そろそろ帰ろうか?西田さん」
「うん」
そうして俺たちは腰を上げ、身支度をして部室を出た。
無言のまま二人で並び、廊下をコツコツと歩く。そして、廊下から階段へと移り、一階へと下る途中のことだった。
「あっ、しまった」
俺は部室のテーブルに、お菓子を置きっぱにしていたことを思い出した。
「どうしたの?中原くん」
「ごめん、部室にお菓子を忘れてきちゃった」
「お菓子を?」
「うん。クッキーとかなら大丈夫と思うけど、チョコとかは溶けちゃうだろうから、俺いつも持って帰ってたんだ」
「じゃあ私、取りに行って来ようか?」
「いやいや、そんなの申し訳ないよ。これは俺のポカだから、俺が行ってくる。西田さん、先に帰ってていいよ!」
「ううん、待ってる」
「ほ、ほんと?バスの時間とか大丈夫?」
「うん、平気」
「わ、わかった。じゃあすぐ戻ってくるから!」
「うん」
そうして俺は西田さんに背中を向けて、下ってきた階段をまた登っていった。
「部室の中に冷蔵庫とか置けるといいんだけど……無理な話か。ちゃんとした部活って認められてもいないのに、そんなの申請しても却下されるだけか」
そんなことをなんとなく呟きながら、誰もいない廊下を小走りし、部室が見えるところまでやってきた。
「……あれ?」
ふと見ると、部室の入口の前に誰かが……こちらに背中を向けて立っていることに気がついた。
それは、橙色の長いツインテールである女子生徒だった。
「……………………」
まさか、もしかしてと思い、俺は動くのを少し緩めて、おそるおそる近寄った。
「……………………」
彼女は、入口の前から全く動かなかった。ただじっと入口に貼られている貼り紙を見つめるばかりだった。
「あの、すみません」
「……!」
俺が後ろから声をかけると、彼女は直ぐ様振り向いてきた。
「!?」
彼女は俺の顔を見た瞬間に、目を見開いて、眉をしかめた。俺が朝に会った人間だと分かったみたいだ。
「あの……カウンセリング部に、何か用だったのかい?」
「……………………」
「実は今日はもう終わろうと思ってたところだったんだけど、もし今話したいことがあれば、部室を開けて……」
「あんたが、カウンセリング部なわけ?」
「え?ま、まあ……」
「じゃあいい。帰る」
そう吐き捨てて、彼女はぷいっとそっぽを向き、そのまま去ろうとしていた。
「あ!あ、あのちょっと!」
俺はそんな彼女を引き留めようとして、咄嗟に右手で彼女の左腕を掴んだ。その瞬間、彼女は般若にも負けないくらいの迫力で、怒りを露にした。
「あたしに触んな!!」
そうして、あろうことか彼女は、自分を掴んでいる俺の腕へ、思い切り噛みついた。
「いででで!!ちょっ!ちょ待って!」
彼女のギザギザの歯が深く腕の肉に食い込み、頭が痺れるほどの痛みに襲われた。
「マ、マジで!マジで止めてくれ!お願いだから!」
俺もめちゃくちゃ余裕がなく、彼女へ離れてもらうよう懇願する。すると、彼女はハッと我に返った様子で、あっさりと口を離してくれた。
「いつつつ……」
右手の手首から肘の間に、小さくも深い歯の跡ができていた。一番尖っている犬歯の部分の穴からは、少しだけ血が垂れていた。
「……ふー……ふー……」
彼女は興奮状態なのか、鼻息が荒く、肩で息をしていた。そして、俺の顔を見たり、俺の腕の傷痕を見たりと、目が泳いでいた。
「……………………」
だが彼女は、そのまま俺へ何を言うこともなく、くるりと背中を向けて走り去ってしまった。
「あ……!もう、なんだよ一体……!」
いきなり噛みつかれたことと、結局何も言わずに行ってしまう彼女に腹が立った。正直、「なんだよてめー!こんちくしょー!」と叫んでやりたいくらいだった。
……しかし、彼女がカウンセリング部の前で佇んでいたことから考えて、何らかの悩みを誰かに打ち明けたいと思っていることは確かだ。なら……ここはぐっと堪えて、一言伝えてやるしかないと思った。
「なあ!俺のことが嫌いなら嫌いでもいいよ!でも!誰かに何か相談したいんだろ!?」
「……………………」
「もし、誰でもいい!俺でもいいから相談したい!ってなったら、その時は来なよ!なあ!」
「……………………」
彼女は俺の言葉に振り向くことはなく、そのまま廊下の向こう側まで走り去ってしまった。
外で降りしきる雨は、まだ止む気配はなかった。
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