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川野芽生
薔薇の名前
ひどく寒い晩でした。夜のふちから夜が滴り落ちて来るような夜でした。あまり寒かったので、夢をひとつ見ました。その女が一つ
夢の中でも冷たい夜でした。うらさびれ汚れた通りを並んで歩いていました。みぞれまじりの空の下に、街灯はひとを正視できないかのように、じっと俯き、足下のぬかるみだけを見つめていました。そんな通りを、まっしろな鳩は、解き放たれたと思うや振り返りもせずに、まっすぐに飛んでいったのでした。
まるで雪だるまが痩せてゆくようだったのです。女はすでにひと回り小さく、華奢になっていて、ほんとうに透き通るような気がしました。わずかの間のいとまを告げに女を訪ねて来たのですが、短い旅から帰ってくる頃 には、どんなに痩せてしまっているだろうと思われるのでした。女の躰はもろい硝子ざいくのようでした。氷でつくった花のようでした。しかし女は、自分がそんなに頼りなくなってしまったことに気づいていなかったのかもしれません。
あんまりそう、無闇に息を吐いてはいけないよ、使い果たしてしまう、(——残された、わずかな息を、)と言ってとめるのに、女はとんじゃくせず、深く呼吸をして、鳩が生まれては重い羽ばたきをして逃げてゆくのを眺めては楽しむのでした。 そうその夜は、傾きかけた船から鼠らが逃げ出してゆくように、幾羽もの鳩が女の躰を見すて、身をよぢって、もがいて脱け出していったのです。
そうして女は薄汚れた石だたみの上に置き去りにされてゆくのでしょうか。それとも女が自分の呼吸に乗って、ひっそりとすこしずつその躰から脱け出そうとしていたのでしょうか。手をのばしてその鳩をつかまえてやろうとはしませんでした。ただ女といっしょに、鳩の後ろ姿を、石だたみの上に立って見送っているだけでした。その先の四つで別れなければならない筈でした。
粉雪が降り始めました。この世界の鉛色を白で覆い尽くしてやろうと、そして何もかも洗い流してやろうと、あんな遥かな高みから飛び下りてきたのです。しかし小さな雪ひらは無力すぎ、かれらの命がけの落下も、無関心な石だたみに迎えられると、むなしく溶けて、ぬかるみを増す他なかったのでした。
女は指を拡げた手でひとひら受け止めました。それから、あああ、寒い、と呟いて、肩かけを引きよせました。すると、肩かけの中にでも包まれていたのでしょうか、 何かがするりとその中から落ちました。女は気づかずにそのまま先へ歩いてゆきます。女より数歩うしろにいたので、身をかがめて拾ってやりました。まっしろい、あたらしい角封筒でした。拾い上げて、顔を上げたとき、急にそこを充たす、不在の気配に気がつきました。女はいませんでした。世界のどこからも、女はいなくなってしまっていました。立ちつくしながら、瞬時にそのことを知ったのです。
封筒には差出人も宛名もありませんでした。きれいに封がしてありましたが、まだらに泥水を吸って重くなっていました。そのときばたばたいう音が聞こえてきたかと思うと、 さっき去っていった方角から、鳩たちが何百となく連れ立って戻ってきたのです。そして激しく封筒に襲いかかるので、思わず取り落とすと、一羽が嘴でさっとさらって、残りの鳩たちは、風をまきおこしながら、それに続いて飛び去ってゆきました。寄ってたかって封筒をするどく突き、細かくちぎって
雪が積もり始めました。
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