第13話
「…………」
「…………」
その階段は人生で最も長く、最も短かったと後世の人は語る。
……誰だ後世の人って。
上っている間、どちらも一言すら発さない。
ギッ、ギッという木材の悲鳴だけが上へと繋がる薄暗い空間に木霊する。
部屋の前にたどり着くが、もはやドアノブを平素はどっちに回していたかも思い出せず、逆にひねりかける。
ええい、ままよ。
心して押し開くと、ドアの向こうに我が領土たる広大な六畳ほどの空間が現れる。
「お邪魔しまーす……」
エリがおずおずと入室する。
「ここが正義の」
興味深そうに天井から床まで視線を巡らす。
といっても目につくものといえば、漫画の詰まった本棚とテレビと埃の積もった学習机くらいなもん。
我ながら改めて見ると殺風景な部屋だ。
ちなみに窓際で最大面積を占有する横長に鎮座ましますものからは目を逸らす。
「そういや初めてだったか?」
「うん。でも変なの。ウチら赤ちゃんの頃から一緒だったのにね」
「まぁここは漫画かテレビしか娯楽ないからな」
隠してるだけで俺専用の娯楽は山ほどあるが。
「お、そうだ。下から座布団持ってくるからそれまでそこの椅子に」
「へー、普段ここで寝てるんだー」
言い切らないうちにとことこと歩いていき、あっさり桜木正義城の本丸にたどり着くとハンドバッグを下ろし、そのまま腰を落ち着ける。
「…………」
うん。
まぁいいけどね?
ここ椅子一脚しかないもんね?
俺に遠慮してくれたんだよね?
そりゃ残るはフカフカしてるベッドしかないよね?
床カッチカチだもんね?
「ふーん……」
エリはそのままコテンと横倒しになったかと思うと、ゴロンとうつ伏せになる。
そして枕に顔を埋め、
「正義のニオイする」
クンクンと鼻を鳴らし、くぐもった声で言う。
「そ、そんな臭う? ははは……そりゃ失敬。自分じゃ気づかんもんで」
「うん。でも全然イヤじゃないよ。むしろこーしてるとすごく落ち着く」
そのまま二度三度と深く呼吸する。
「そ、そりゃ良かった。いやー、やっぱ俺のような癒し系男子ともなると自然とそういうGABAっぽい成分がうなじから滲み出てきちゃうんだろうな。お、そうだ、いいこと思いついた。ここは一つブランドを立ち上げ、俺の体臭で香水業界に殴り込みをかけてみるとしよう。うん、名案。ひょっとしたら奇跡的偶然が積み重なって三〇代OLを中心に俺を教祖とする桜木正義教が世界宗教として勃興しちゃったりなんかして――」
「ヤだ」
「……へ?」
「誰にも嗅がせないで」
そう言って起き上がる。
その頬はほのかな桜色に上気していた。
「これはアタシだけのもんだから」
そして潤んだ目をして、ドアの前で馬鹿みたいに突っ立ったままの俺を見据えてくる。
「ねぇ正義」
え。
あ、あの……エリさん?
貴女もしかして……。
「正義も……こっち来て?」
ですよね。
エリはポフポフと自分の横のシーツを叩いて誘導する。
俺はギギギとナンバ歩きでそこに向かう。
こわごわと座ると、ギシッとベッドのパイプが軋む。
「そういえば正義って、女のコ部屋に呼ぶの初めて?」
「あ、ああ」
「そっか。あたしも、男のコの部屋入ったの初めてなんだ」
俺の肩にエリの小作りな頭がちょこんと乗る。
「ハハ……俺と違ってお前がその気なら幾らでもチャンスあったろうに……」
「……知ってるくせに」
恨めしそうに言って、エリはすべすべした五指を絡めてきた。
そしてギュッと少し力を込めて握ってくる。
「ねぇ、自分でも今更こんなこと訊くのメンドくさいなって思うけど、部屋に行ったってオンナのヒトとは……」
言わずもがな頭桃色のことだろう。そういえばまだ勘違いされたままだったと思い出す。
「……あれは誤解だ」
「誤解?」
「助けた見返りにデザート食ってゲームしただけで、それ以上なんもない」
「そうなの……?」
フゥ、これでやっと名誉回復が果たせた。
「逆にこっちが訊きたいぐらいだ。どうやったら俺がんなプレイボーイじみた真似したなんて酷い勘違いできたんだ? ちゃんと噛み砕いて説明したろうに」
「……いや、噛み砕きすぎ。あんなの勘違いするなってほうが無理だし」
非難がましく言い、
「でもそっか、何もなかったんだ……」
吐息を漏らし、グリグリと頭を肩に擦りつけてくる。しばしその猫のマーキングのような行為を続けた後、
「嬉し。じゃあ全部初めて同士だね、ウチら」
「…………」
ゼンブハジメテドウシダネ?
ナニガゼンブハジメテドウシナノ?
疑問に思いながらエリを見て、うっかり眼と眼で通じ合ってしまう。
あ、マズイ。
と直感した矢先――
「――――」
エリは何も言わず、そっと瞼を下ろした。
「…………」
OH。
とうとう恐れていた瞬間が現実のものに。
ルパンを追っててとんでもない心を盗んでしまった。どうしよう。
……いや、どうするもこうするもねぇだろタコ。
同い年の小娘からここまで気持ちをあけすけにされて、なおも言を左右にして逃げ回ったとあっちゃ、桜木正義の名が泣くってんだ。つまり、あとは俺がテメェの気持ちに大人しく従うか否かじゃねぇか。
そう。
俺の気持ちははっきりしてる。
誤解を恐れず言えば、俺はこの横にいるアバズレを憎からず思っている。
曲がりなりに格好だけ抵抗じみたことをしてみたのも、間部のお膳立てにみすみす乗っかって関係を持つのが癪だったからでしかない。
思えば、最初から本気でこの事態を回避しようとすれば、他にいくらでも取るべき方策があった。
例えば俺も親父とお袋を追って自腹で温泉に浸かりに行くもよし、翼を求めて鳥人間コンテストに出場するもよし。
そうしなかったのは、俺も本心ではこの瞬間を心待ちにしていたからに違いない。
クソッ……認めてしまった。難攻不落で鳴らした桜木正義城も、なんと兵どもが夢の跡か。
ああ、いいやもう。
はいはい好き好き。大好き。超好き。マジ愛してる。マンモスラブ。エリ・イズ・マイライフ。
フゥ……やっと言えてすっきりした。
認めてしまったからには、これ以上自制する必要もない。
よろしい。この一五年グツグツといいだけ煮詰められ、三日目のカレーに負けず劣らずドロドロしきった欲望を思うがまま純白のキャンバスにぶつけてくれよう。ぐへへ。
……いや、でも一応ノーマルですよ? ぼかぁ。
「エリ」
「っ……」
手を握り返すと、長たらしい睫毛が震えた。
俺は首を九〇度曲げ、慎重に座標を合わせながら顔を近づける。
途中、エリのあたたかな鼻息を感じた。
そして、満を持して離れ離れになっていた二本の消化管が、一つの管を成そうとした。
その瞬間――
ピンポーン。
互いの心臓の鼓動すら聞こえてきそうなしんとした静寂を、その無粋なチャイムの音が塗りつぶした。
「お客さん……」
薄く眼を開けたエリが囁く。
「……だな」
「……いーの? 出なくて」
「まぁ宅配とかだろうし、無視しときゃそのうち……」
ピンポーン。
ピンポーン。
ピンポーン。
しかしその来訪者はそんな期待を嘲笑うように立て続けにチャイムを連打し、一向に諦めて去っていく気配がない。
「あークソ!」
どこのお邪魔虫ケラだ! 我がムスコの一世一代の晴れ舞台に!
俺は我慢ならず立ち上がり、後ろ髪を引かれる思いで、少々前屈み気味にドアへと向かう。
ノブに手をかけようとしたとき、
「正義」
後ろからエリの呼び止める声がし、首だけを不自然に捻じ曲げて振り返る。
「なる早で戻ってきて、続きシよ?」
その魔性の微笑にあてられ、更なる前屈みを余儀なくされた。
ピンポーン。
ピンポーン。
ピンポーン。
「はいはい、そんな鳴らさなくてもいるっつってんだろーが。開けた瞬間ぶっ飛ばして出会って四秒で万里の長城と合体させんぞコラ」
俺は階段を聞こえよがしに踏み鳴らしながら、玄関先に向かって怒鳴った。
「どちらのタイミング最悪で俺の機嫌を損ねる命知らずな呼ばれざるクソッタレ客人様でらっしゃいますかコンチクショウ」
怒り任せに扉を開け放つと、意外な人物がそこに立っていた。
「テメェは……」
「こんにちは、正義くん」
それはあのヒヤリハットに目鼻口をつけたおたんこナース、頭桃色だった。
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