第12話


 新しい朝が来た。

 希望の朝が。

 ……来ちゃった。


「………………どうしましょ?」


 夜通しギンギンに眼が冴え渡り、まどろむことすら出来なかった俺は、窓に向かって頬杖をつき、白黒な小鳥さんに問いかけてみる。

 小鳥さんはチチチと囀り、薄情にも何処かに羽ばたいていってしまった。嗚呼、俺にもあんな自由に空駆ける翼があればなぁ。


「いかんいかん……」


 俺は頬を両手で叩き、正気に戻る。

 落ち着け。まだ何かが起こると決まったわけじゃない。


「そうだ」


 考えてみれば奴らがいるじゃないか。

 何故今の今まで忘れていたのか。

 子供の一挙手一投足にサーチライトのように目を光らせ、毛が生え揃ったばかりの我が子が一時の先走った感情で前後不覚に陥ろうものなら、飛んできてこれを月に代わって綱紀粛正してくれる最大の障壁。

 確か今日は両親ともに休みだったはず。

 むしろ休みじゃない日がない。年中無休で有休。

 かつてあの両親がこれほど頼もしく思えた日はない。

 あのロクデナシどもでもきっと家から出ないくらいの仕事こなせるだろう。

 途端に軽くなった足取りで階下に下りると、居間のテーブルに一枚の裏返ったチラシがあった。


『パパと泊りがけで温泉にはいってきま~す。探さないでね(はぁと)


                      あなたの愛しい愛しいマザーより』


 強アルカリの源泉に足滑らせて溶け込んでしまえ。

 最後の希望が試合開始前から打ち砕かれ、俺は砂を噛むような味のしない朝食を摂ると、力なく台所の椅子に枝垂れかかった。

 その後も天地開闢以来バカの一つ覚えで一方向に流れ続ける時は留まることも巻き戻ることも知らず、敢えなく正午を迎える。


 ピンポーン。


 短針と長針が重なるのとほぼ同士に、試合開始のゴングが鳴らされた。


「来たか……」


 ひとり呟き、テーブルに手をついてすっくと立ち上がる。

 するとテーブルがカタカタと小刻みに震えだす。

 ヘヘッ……こんなに武者震いすんのは半年前、『ヤベーゼキョーダイ! 新宿二チョー目の放った一〇〇人の刺客が血眼になってキョーダイを捜してやがンヨ……!』とエイプリルフールに間部から迫真のイタ電を受け取って以来だ。


「や」


 玄関を開けた先に、ピンクと紫の中間みたいな色のハンドバッグを携えたエリが立っていた。

 見た感じ俺と違い、普段と変わった様子はない。もしかすると俺が勝手に先走り過ぎていただけで、ただ純粋にゲームでもしに来たのではなかろうかとすら思える。


「う、うむ。あれほどざっくりした時間指定にも関わらずロスタイム〇分とは中東の笛も真っ青な時間厳守ぶりだな。まぁ、入るがいい」

「うん。ありがと」


 俺が扉を押さえて招き入れると、エリはつかつかと上り口に歩を進め、しげしげと屋内に視線を巡らせた。


「にしても前来たときからぜんぜん変わってないねー。もしかして、あえてそのまんまにしてるとか?」

「フン、リフォームする金がないだけだろ」


 目に入れても痛くない一人息子を置いて二人きりで温泉に行く金はどこかにあるようだが。

 ……いや、まさか俺の進学用の積立金切り崩してるとかじゃねぇよな? あの社会不適合コンビならやりかねんぞ。


「それで今日、おじさんとおばさんは?」

「え?」


 いきなりの核心を突く質問に、動きが止まる。

 見れば、エリが何かを期待するような眼で見上げてくる。


「あ、親父とお袋? えーと……今ちょっと買い物行っててだな、きっとすぐ帰ってくるはずだ。うん」

「……そうなの?」


 その微かに俯いた顔が目に見えて気落ちしたように映るのは、多分気のせいか光の加減だろう。ね?


「もう、すぐだから、すぐ。ホントすぐ。すぐ寄りのすぐ。すぐすぎていつ帰ってくるかわかったもんじゃない。いつとは言えないけど、もうその隙に何かしてる暇もないだけすぐなのは確か。いてもいなくても同じすぎて実は見えてないだけでもう帰って来てるかもしれない。マジカミングスーン」


 俺は裏側に突き抜けるだけ念入りに釘を刺しておく。

 よしよし、これで何も起こりようがない。


「まぁ目に留まらないだけ呆気なく瞬殺で帰ってくるだろうけど、折角だし適当にくつろいでけよ。高級粗茶淹れてきてやるから」


 勝利を確信した俺が台所へ向かうと、エリは居間へと入っていった。

 …………ん? 居間?


「あ゛」


 致命的な地雷の存在を思い出し、俺は茶筒をほっぽりだしてエリの後を追う。

 しかし、


「ふーん?」


 時すでに遅く、居間に入ると案の定エリが机に置かれっぱなしになっていた俺の苦肉の策を木っ端微塵に吹き飛ばす地雷を掌握しており、動かぬ証拠をこちらにひらひらと見せびらかしてくる。


「あれあれ~なんかさっき聞いた話と違うなー。これ見ると買い物じゃなくて夫婦水入らずで温泉旅行に行ってるみたいなんですけどー?」


 言って、ジトッと白い眼をする。

 俺の背中はたちまち大洪水を起こす。

 あのババア、最大の障壁どころかこの場に居らずして最高のアシスト決めてんじゃねぇか。仲達走らす死せる孔明かテメェは。


「あ、あー、それ?」


 勝利目前で身内に寝首をかかれ、一瞬のうちに土俵際に追い込まれた俺は、めまぐるしく脳みそをフル回転する。

 だが思いきり物的証拠を押さえられているため、起死回生の手などいくら考えたって皆無である。

 仕方ない。ここはとりあえず、


「えー、見せて見せて。あ、そういうこと? これ『泊りがけで温泉には』ってスーパーじゃなかったん? いや実は朝の早よから出かけた割に中々帰ってこないからおかしいと思ってたんだわ。てっきりまた二人して仲睦まじく万引きして御用になってんのかと。ったく、しょうがねぇな親父とお袋は」


 チラシを手に、やれやれと肩をすくめる。

 正直相当無理のある言い訳だが、勘違いは誰にでもあるものだ。証拠がない以上、エリもこれ以上問い詰められまい。

 もうこうなったら天然を装いこの窮地を切り抜けるしかない。そうだ、俺が率先してピエロとなり和気藹々したムードを演出したところで、


「ところでなんかして遊ばね?」

「あ、このゲーム懐かしー」

「おーし、じゃあ久々に一緒にやるか」


 ――という自然な導入に持っていくとしよう。

 その結果、二人は時間が経つのも忘れて童心に還り、気がつけば朝になってしまうという寸法だ。

 うむ、急ごしらえにしては破綻のないまずまずな作戦。


「ねぇ」


 俺がそんなフワッとした青写真を思い浮かべ頷いていた矢先、やにわにエリが口を開く。


「あたし、正義の部屋に行きたい」


「……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………俺の部屋にですか?」


 思わず敬語になる。

 同時に、頭で必死に築き上げた砂上の楼閣がエリの立てたその波紋で、一瞬にして跡形もなく倒壊する様が見えた。

 俺の部屋?

 そんなところに行ってどうするの?

 遊びたいなら二世代前のポストレトロゲーム機がほらそこにあるよ?

 なのに俺の部屋に河岸変えする理由はなんなの?

 そこに向かうまでにある階段はなんのメタファーなの?


「駄目?」


 俺が走馬灯のように思考をぐるぐるさせていると、エリは細い首を例のピサの斜塔の角度に傾け、ノータイムで秘義八の字眉上目遣いを繰り出してくる。

 グッ……かわっ……かわっ。


「……わかった」


 ガクリと頭を垂れる。

 そしてエリを伴って廊下へ出た。

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