第4話

「オイ、エリ」


 女友達とくっちゃべりながら歩いているところを呼び止める。どうでもいいけど廊下をダラダラと横並びに歩くのやめろ。もっとトレイントレイン走って行け。


 エリはむっつりした顔でこちらを振り返り、


「……あにさ?」


 ジロッと威圧感ゼロの三白眼で睨んでくる。


「いいからちょっとそこまで面貸せ」


 歩み寄るにしても大統領としての面子があるので、人気のない東階段を親指でクイッと指定する。

 すると唇を尖らせ、ジャージの入った袋を見せつけてくる。


「休み時間のうちに着替えなきゃなんないんですけどー?」

「んなこと気にするギャルがいるか。ギャルならギャルらしくもっと自由の女神さながらにバリバリ先陣切って学級崩壊させてけよ。この二之舞中にレボリューションを起こしちゃいなよ」


 そう説得すると、


「もー……、ごめん、先行ってて」


 渋っていた割にやけにあっさり態度を軟化させ、エリは同行中の友達に手を合わせ、大人しく俺についてきた。

 拍子抜けである。

 こんなにも簡単に応じられると思っておらず、ごねた場合を想定して如才なく二の矢三の矢を用意していたというのに。その分、こっちとしてはいらん手間が省けてありがたいけど。

 あるいは。

 俺はチラと後ろを一瞥する。

 向こうもこの膠着状態を脱するきっかけを、今か今かと欲していたのかもしれない、というのは考えすぎか。

 ほどなく階段にたどり着き、二人向かい合う。


「で、貸したげたけど何?」


 こちらが口を開く前に、エリが促す。

 このアマ、まるで嫌で嫌で仕方ないけどしつこくお願いされたから来てあげたわよ、っぽいスタイルで髪を指に巻きつけやがって。その右斜め下に向けられた瞳は何を映してんだよ。なんもねぇだろそこ。


「あー、まー、なんだ」


 しかしだ。

 覚悟を決めたものの、いざこうして改まって謝るとなると何を言ったらいいか途端にわからんくなり、天井に視線を這わす。

 ううむ。こうなると謝罪する余地のない人生を歩んできた自分の清廉潔白さが恨めしい。


「オホン」


 場を持たせるため、俺は一つ咳払いをする。

 まずは手短に用件を伝えることにしよう。


「その、こないだのことなんだが」


 と言うと、


「こないだ?」


 エリがきょとんとした顔で訊く。

 クッ……コイツわかってるくせにカマトトぶりやがって。

 つーかやっぱテメェもさっさとこの冷戦を終わらせたいんじゃねぇか。自分じゃ気づいてないかも知んねぇけど、眼がランランと輝いてんぞコラ。

 俺がそんな怒りを押し殺し、


「あのな、こないだっつったら、こないだのアレのことしかねぇだろーが。ほら、アレだよアレ」


 指示代名詞を連呼すると、今度は顎に人差し指を当てて小首を傾げる。


「えー、アレ? アレってなんだろー? ごめーん、ちょっとあたし頭悪くて思い当たんないかな~。よかったら正義の口から具体的に教えてもらってもいーい? 何がこないだでぇ、何がアレなのぉ?」


 殺したい。

 ロープを! 誰か余にロープを持てい!


「はっ」


 いかんいかん。うっかり怒りに我を忘れ、あの縦横によく動く災いの元を根本から断つところだった。

 胸に手を当て、必死に心を宥めすかす。

 落ち着け。はい深呼吸。

 そう、俺はプレジデント。この国を統べる大器。そんな朕がこんなペットボトルの蓋くらいの器しか持たない路傍の石ころごときに心を乱されたとあっては、自分を支持してくれている小市民どもに合わす顔がない。

 気を取り直し、再び「ん~?」とピサの斜塔みたいになっている腹立たしい小娘を見据える。

 気づいたが、どうやらこの状況、誤魔化せば誤魔化すだけさらなる辱めが待っている底なし沼システムらしい。

 なのでいっそもう開き直ったほうが吉だ。

 俺は肚を決め、


「……だから、おとといの夜はほんのちょびっとだけ口が悪かったって言ってんの。ションベン臭いとかいってゴメンナサイデシタ」


 顔を背けて言う。流石に頭まで下げられん。

 エリは眼をパチクリさせ、胸元で手を合わせる。


「え。あー……なに、もしかするとあのときこと言ってたりする? やだそんな気にしてたんだー? へー? うっそごっめーん、あたしったらもうそんな前のことすっかり忘れててー、一瞬なんのことかと思っちゃったじゃーん。あはは。なんだ、それならそーと早く言ってくれればいいのに~」


 我慢我慢我慢我慢我慢我慢我慢我慢我慢我慢我慢我慢我慢我慢我慢我慢我慢我慢我慢我慢我慢我慢我慢我慢我慢我慢我慢我慢我慢我慢我慢我慢我慢我慢我慢我慢我慢我慢我慢我慢我慢。


「でも、そんなのホント全然気にしなくてよかったのに~。あ! もしかしてあたしが怒って無視してるとか勘違いさせちゃってた系? ごめんごめん! あれはそー、なんか正義がこっち怖い目で見てくるからー近寄りづらかった的な? てか正義マジ自意識過剰すぎるんですけど~。超キモーイ」


 俺プレジデント俺プレジデント俺プレジデント俺プレジデント俺プレジデント俺プレジデント俺プレジデント俺プレジデント俺プレジデント俺プレジデント俺プレジデント俺プレジデント俺プレジデント俺プレジデント俺プレジデント俺プレジデント俺プレジデント。


「それで?」


 歯を食いしばり絶賛臥薪嘗胆中の俺の耳元で、突然囁き声がした。


「あたしのスカートの中、ホントはどんなニオイしたの?」


 きっかり五秒後。


「ばっ!?」


 仰天して飛び退く。

 見ればエリはニヤニヤと意地の悪い笑みをたたえ、


「ねーねー、どーなのー? 忘れたってゆーならもー一回嗅いでみる?」


 言いながらスカートの裾をつまむ。


「ば、ばばばばばばばば」


 かくいう俺は舌がもつれて言葉にならない。


「あはっ、正義ってばホントわかりやす~い。ホントにオシッコ臭かったなら、そんな顔真っ赤にしないもんね~? ほーぉらー、正直に言っちゃえ。ちゃんと覚えてるんでしょー? あのときクンクンクンクンって犬みたいに嗅いだあたしのここのニオイ。ね、おせーて? どんなニーオイ?」


 こ、コイツ……弱みを見せた途端そのスジの人さながらに際限なくつけ込んでくるじゃねぇか。

 ジリジリと迫ってくるエリの手で、あっさり壁際まで追い込まれる。

 もういい。下手に出るのはおしまいだ。

 和睦は成立した。サンドバッグじゃあるまいし、これ以上やられっ放しでいられるかってんだ。この弱者をいたぶることに快感を覚えている悪趣味変態猫娘に、窮鼠猫を噛むのことわざを思い知らせてくれる。

 てなわけで待ちに待った反撃開始。面舵いっぱいヨーソロー。


「オウオウ、言わせておけば人が忸怩たる思いで折れてやったってのに、傷口にサンオイル気分で塩塗りたくりやがって。終生今日のこと思い出すたび枕に顔埋めてんーんー呻きながらバタ足すっぞコラ。つーか、元はといえばお前が軽々しく誰にでもスカート覗かせる破廉恥な真似しなきゃ、俺がわざわざこんな柄にもないことしないで済んだっつーの。尻拭わせた上に、股嗅がせるなっつーの。反省しろこのなんちゃってビッチ」


「誰にでもなんて覗かせてないし!」


 藪から棒にエリが真剣な声を張り上げたので、至近距離にいた俺の心臓がキュッてなった。キュッて。

 いや、ビビッてはねぇよ?


「覗かせてないって……いやいや、現に俺に見せてたじゃねぇか。その、パパパパパパンツをよぉ」


 逆にあれがパパパパパパンツじゃなかったら何だったというのか。まさか嘘から出た真で本当にオムツだったとでも言うのか。


「そ、それは……」


 矛盾を指摘され、エリは途端にもじもじしだし、


「それは……正義だから見せたんでしょ!」


 逆ギレするように言った。 


「アン?」


 俺だから?


「あー」


 はいはい。

 何、つまりそういうこと?

 ならず者たちから青い顔募金を受ける俺に標的を絞って無限に千円を毟り続けようって魂胆ってこと?

 なにその歌舞伎町の縮図みたいな食物サイクル。中坊にして資本主義カンペキ理解しちゃってんじゃん。

 てかカモ相手に堂々と手の内を明かすとか、絶対金づるを逃さないという断固たる意志を感じて怖いんだけど。


「お前さ、ちょっとそこ直れ」


 この期に及んで懲りずに俺狩り宣言とは反省の色がまるで伺えないので、俺はいよいよ真面目にお節介幼馴染モードに入った。


「いや、だからさ。俺でもオッサンでもいいんだよ別に。問題はそこじゃなくて、そもそも金貰ってパパパパパパパンツ見せんのやめろつってんの。いくらお前がギャルでパパパパパパンツが減るもんではないっていっても、お前も一応嫁入り前の娘ならそのへんもうちょい弁えて――」

「うっさい、鈍感!」


 え……俺いま珍しくまともなこと言ってなかった?


「だ、だから、だからね?」


 反抗期の娘を持ったパパの気分を齢一五にして味わっている俺の袖を、ギュッと掴んでくる。


「つまり。あ、あ、あたしは……正義のこと――」


「桜木クン! ここにいたンだネ!」


 エリが何か言いかけるのを遮り、手を振りながら、見覚えのない顔がドタドタと廊下を駆けてくる。


「アアン?」


 語尾がカタカナだからまず『地獄』の誰かだろう。俺はコンマ一秒で眉根を寄せ、駆け寄ってきたソフトモヒカン男にガンを飛ばす。


「あのよ、朝のHR前以外で接触してきたらシメるって何遍言わせる気よ。これでも二億兆歩譲ってんだぞこちとら」

「ご、ゴメン」


 凄まれたソイツはペコペコと頭を下げる。


「だって桜木クンの周りいつも人だかり凄くて中々話かけらンないからサ……」

「んなもん言い訳になんねーんだよ。こっちはあの僅かな時間でさえ自分でもなんでまだ不登校になってねぇのか不思議でたまらないだけ毎朝ストレスフルなんだよ。もういい加減引きこもって毎日プリント家まで届けさせんぞテメェ」

「こ、これからは気をつけるンで許してヨ」


 そのソフモヒはあたふたし、誤魔化すように叫ぶ。


「そ、それよりオメデト! とーとーカノジョ出来たンダネ!」


 瞬間、ピキッと空気が凍りつくような音が聞こえた気がした。


「ア? カノジョ?」


 何言ってんだこのしょうゆ顔のベッカムは。


「…………カノジョ?」


 エリも一緒に疑問形で呟くが、俺にも皆目見当がつかないので、そんなにこっちを見つめられても困る。


「一体なんのこっちゃわからん。ああ、テメェが昨日見た夢の話か? あいにく俺は永遠の夢追い人ではあっても夢占いは門外漢なんだわ。偉大なフロイト先生にあやかって何でもかんでも欲求不満に結び付けられたくなかったらとっとと失せるんだな」


 俺がシッシッと手を振ると、そのソフモヒは急にニヤけだし、


「トボケなくなってイーッテ。誰なのサ、昨日一緒してたキレーなオンナのヒト? ホラ、仲良く買い物袋持ってサ店で見つめ合ってアゲク部屋に上がりこンで何時間もしけこンでたあのヒトだヨ」


 このこの、と肘でつついてくる。


「馴れ馴れしくツンツンしてんじゃねぇよ。リアルでその仕草する人間初めてだわ。つーかテメ、誰に許可とって徹頭徹尾パパラッチしてんだコラ。確かに俺は人品卑しからぬ雰囲気が岩清水のように漏れだす快男児だから思わずイギリス王家と間違えちゃう気持ちもわからなくないが、こう見えて生まれてこの方善良な一般市民だっつーの」


 ったく、とため息を吐きながら俺は記憶を探る。ん、昨日だと?


「あ」


 そのとき、頭の中でボヤヤーンと湯気の中から浮かび上がってきたのは、あの思い出しただけで頭の痛くなる能天気なアホ面だった。

 まさか。

 そこでやっと俺は、ソフモヒの言っているカノジョとやらが誰のことを指しているのか理解した。

 このアホンダラ、よりによって頭桃色を……。

 フザケやがって。何が悲しくて俺があんな不良債権引き取らなくちゃなんねぇんだよ。人類が俺たち以外絶滅して三跪九叩頭さんききゅうこうとうされたって願い下げだわ。

 まったく。普段であれば一週間は学校を休みたくなるだけこの失礼ソフモヒを追い込むところだが、運がいいことに今の俺はエリとのわだかまりが解けたばかりでそこそこ機嫌が良い。なので今回だけは気前よく見逃してやるとしよう。

 とはいえ、頭桃色のカレシなどという不名誉極まる汚名だけは、一刻も早くそそいでおかねばならない。


「いいかよく聴け」


 俺はソフモヒのような生きているだけでベッカムに絶えず風評被害を与えているようなおバカさんにもわかるよう、難しい言葉を使ったり敢えて長々と仔細まで話すのは避け、ジェスチャーをまじえて簡単なダイジェスト版でお送りしてやることにした。


「アイツがカノジョだと? バカ言ってんじゃねぇよ。俺はただ道すがら、帰り道もわかんねぇ不器用なオンナをちょっくら導いてやっただけさ。ま、御礼はたっぷりこっちで払ってもらったけどな」


 そう言い、白玉クリームぜんざいとハーゲンダッツで満たされた腹鼓をポンと打つ。


「あ、あんなキレーなヒトと行きずりでそンなことヲ!?」


 ソフモヒはギョッと目を見開いて、驚愕の表情を浮かべた。

 たかが一緒にデザートを食っただけでそこまで驚くことかと不思議に思ったものの、こいつらからすれば、異性とその程度のコミュニケーションを取る機会すら難儀するのだろう。惨めな奴らだ。俺もあまり人のことを言えないけど。

 俺は続きを話す。


「フゥ……アイツときたら、こっちがもうヘトヘトだって言うのに、まだシたいまだシたいって聞かなくてな。エキサイトしすぎて終わる頃にはすっかりお互い汗だくよ。もうあんなオンナ懲り懲りだぜ」


 俺はパーティーゲームでの熱戦に次ぐ熱戦を思い出し、顔をしかめてかぶりを振る。

 するとソフモヒは、今度は瞳をキラキラと満天の星空のように輝かせ、


「し、シブすぎンゼ桜木クン! まさにオトコの中のオトコのブユーデンじゃンカ!」

「え、そう?」


 何コイツ、めっちゃ褒めてくれんじゃん。もしかしていい『地獄』なの?


「ソーだヨ! なんだか今日はイッソー輝いてンヨ! 二之舞のドン・ファンだヨ!」


 ヨイショされているうちになんだか気分が良くなってきたので、鼻の下を擦り「へっ、よせやい」と応える。エリとの不仲も解消されるし、いい『地獄』に会えるし、どうやら今日はいいことが続く近年稀に見る吉日のようだ。

 そこで俺ははたと、先程からやけに静かなエリの存在を思い出す。そういえば先程何か俺に言いかけていたような気がする。もしかしたらそっちも何か良い話かもしれない。


「お、そうそうエリ、さっき俺に何か言いかけて――」


 そう思い、いざそっちを向き直ると、


「ん、どうした? その足元だけ超局地的な地震か?」


 血の気の引いた表情のエリが立っており、身体が小刻みに震えていたのでそう訊いた。


「こ……」


 エリが短く呟く。


「こ?」


 次なる吉報に期待し、俺がかわいらしく小首を傾げた瞬間――


「この股間暴走族!!」


 そう叫ぶなり、ジャージ袋が俺の左顔面にクリーンヒットする。

 傷害の現行犯であるエリは回れ右して階下に逃走。

 俺とソフモヒはポカーンとこいのぼりみたいに口を開け、それを見送った。

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