あだ名の話


 けんジィとは僕のあだ名である。大方おおかたの人は兼人+お爺ちゃんでけんジィだと思っているようだが、それは後付けの理由である。本当のところは知り合った小学生時代にさかのぼって、彼女が僕の名前を勘違いしたところから語らねばならない。


 昔の来栖が引っ込み思案で暗い性格だったことは以前記した。その頃の彼女は人付き合いが苦手で、特に名前を覚えることができなかった。


 彼女が僕に懐くようになってからは、来栖は僕のところに自分から寄ってきて、


「えっと、えっと、けん……けん……」


「けん……?」


「けんじ!」


「けんとだ! やえやまけんと! いいかげん覚えて!」


「あぅ……ごめん……」


 というような問答を繰り返した。


「もうわざとやってない?」


「違うよぉ!」


 僕がしかめっ面をすると来栖はむきになって否定する。


「じゃあ、僕の名前は?」


「けんじ!」


「おい!」


 まるで僕が怒るのを楽しんでいるようだった。好きな人を困らせたいということだろうか。けんじけんじと呼び続け、それがいつしかけんジィになっていったのだった。


 なんでこんな話をしたかというと、来栖が僕と氷月さんのアパートを訪ねて来たからだった。


「懐かしいね~。あの頃のけんジィは可愛かったなぁ~~」


「今も可愛いわよ。昨日なんて寝ぼけて抱き着いてきて頬にキスを……」


「え~~~!? けんジィが!?」


「可愛いでしょ?」


「すっごい可愛い!」


 氷月さんと来栖がコタツに当たりながらキャイキャイと言葉を交わしていた。折しも白雪の舞う12月の事だった。女の子たちの黄色い声が部屋の空気を華やかにするようだったが、僕はキッチンに立ち夜ご飯を作っているのだから面白くない。


「適当なこと言うなよ。僕にそんな記憶はない」


「そうそう。八重山ったら寝ぼけてる時の記憶が無いんだよ。だからこの間なんかね……」


「え~~~うそ~~~~~!」


「…………」


「やえちん、手伝おっか?」と、脇からひょいと顔を出してゆりねが見上げてくる。


 彼女も来栖と共に訪れたのだが、氷月さんと来栖の間に入れずキッチンをうろちょろしていた。


「じゃあ、僕が盛り付けていくからゆりねはテーブルに運んでくれるか」


「ほいほ~い」


 僕が皿を用意し盛り付けている合間をぬってゆりねは調理器具を洗った。空いた時間を無駄にしない料理ができる人の手際の良さである。こういうこまめな気遣いが男に受けるのだろう。来栖曰く、彼女は大学でモテモテらしかった。


 シチューを作った。


 僕らが夕食の準備を進めているとコタツの方から「あ~あ、私もあだ名をつけたいなぁ」と言う氷月さんの言葉が聞こえる。


「つければいいじゃん?」と来栖。


「それが難しいのよー。小日向さんがやえちんで、木実がけんジィでしょ?」


「ゆりねは四文字で呼ぶことが多いね。私のことはこのみんだし」


「ふぅん……」


 そこへゆりねがシチューを並べながら「フィーリングだよフィーリング。呼びたいように呼べばいいの。気持ちは伝わるからさ」と言う。


「フィーリングかぁ……」


「やえちんの事をどう呼びたい? ほら、よく見て」


 と僕の方を指さして氷月さんを向い合せに座らせる。


 氷月さんは眉根を寄せて真剣な眼差しで僕を見た。


「じーーーーー」


「………………」


「じーーーーーーーーー………」


 見つめ合っているうちに恥ずかしくなってきたのだろう。頬を赤らめて両手で顔を覆うと「む、無理……………」と弱々しい声で言った。


「すっご。同棲して1年が経とうとしてるのにこの純情さか……」


「凛……いくらなんでもそれは……」


 ゆりねと来栖が呆れるのも仕方のない事だろう。氷月さんは「うるさいっ!」と吠えた。


「別に特別な呼び方なんて必要ないだろ? どんな呼び方でも重ねた時間が特別にするんだから」


「そう、そうだよね!」


「逃げた」


「逃げたね」


「逃げてないもん!」


 氷月さんは我が意を得たりというように2人を見ると「八重山はやっぱ良い事言うな~~~~」とこれ見よがしに僕に抱き着いた。


 この人は同棲を始めてからさらに子供っぽくなったように思う。


「ああ、彼氏が甘やかすからいけないんだ」


「おい、凜をダメにするなよ」


「んなこと言われてもなぁ……凜、僕、座れないんだけど」


「は~~い」


 こういうところが可愛いと思っていたけれどたしかに甘やかしすぎなのかもしれない。甘い声音が溶けたハチミツのように耳に弾力を残す。最近の腑抜け方は特にひどいと思う。子猫のようですらあった。


「甘えるのは2人のときだけね」と言うと、寂しそうな声で「はぁい……」と俯くのだった。


     ☆☆☆


 その後、来栖とゆりねは終電前に帰り、僕はミカンを食べながら氷月さんとコタツでのんびりしていた。


「あだ名……あだ名……」


「まだ言ってる」


「だってぇ……私だけ八重山の事を苗字で呼んでるし? もし結婚したら……その、私も……や、八重山になるわけだし…………」


「あーー、それはそうか。普通に名前で良くないか?」


「やなの! あだ名が良いの! この女心を分かってよね!」


「女心……か……?」


 僕にはよく分からなかったけれど、氷月さんはあだ名の特別な感じに憧れているらしい。


 僕は、「けん」とか「けん君」とかいくつか候補をあげた。けれど氷月さんはどれもしっくりこないらしく、


 結局、結婚するまで呼び方を変えなかった。

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