おまけ
初めて氷月さんの家に泊った日の話
初めて氷月さんの家に泊ったのが、あの大学合格の日であった。
彼女の家にお泊りをする。しかも、彼女の部屋で寝るのである。これは本当に現実なのかと半信半疑だったが、氷月さんの部屋のど真ん中に、ローテーブルをどかして敷布団が用意されているのを見ると、これからここで寝るのだと突きつけられているようでドキッとした。
僕が布団を整えていると氷月さんが部屋に入ってきて「八重山ー。お母さんがホットケーキ焼いてくれるってさー」
「そうか、先に食べてていいよ。僕も後で行くから」
「いやいや、何してんの」と、やめなさいと言わんばかりに僕の肩を叩いた。
風呂上りの髪が僕の頬を撫でて、良い匂いがした。
「寝る準備を済ませておこうと思って」
「なんで? ベッドで寝ようよ。その布団しばらく使ってないから湿気てるよ?」
「そう? ちゃんとふかふかなんだけど」
むしろクリーニングに出した直後のように温かかった。
……ということは初めから仕組まれていたのか? このお泊りは?
氷月さんはなおも僕を止めようとした。
「いやいや、分からないよ。寝てるうちにぺたんとしてきて、明日の朝起きたら腰が痛くなってるかもよ?」
「望むところだ。普段ベッドで寝てるからむしろ特別感があって、敷布団も好きなんだよね」
「ぶぅ……。ベッドの方が寝心地いいもん」
どうあっても一緒に寝たいらしい。「ていうかシングルベッドに2人は狭いだろ。寝相が悪いと未来さんから聞いたぞ」と目論見を看破してやると、
「おかーーーさーーーーーん! 余計な事言わないでよーーーーー!」
と、バタバタと部屋を出て行った。
「あと布団用意しなくて良いって言ったじゃーーーーーん!」
「やっぱりそうか! おい!」
そんなことをしているうちに10時を回った。
☆☆☆
ホットケーキをいただいて、部屋に戻る。時刻は10時30分。
「夜はまだまだこれから!」と氷月さんは敷布団をひっぺがしてアナログゲームを取り出して並べ始めた。
氷月さんのパジャマはピンクと白の水玉模様だった。もこもこした生地が温かそうな長袖長ズボンのパジャマである。可愛らしい猫耳フード付きで、それを氷月さんが着ているのだから、大人びた容姿とのギャップがすごい。
「せっかく敷いたのに……」借り物だから綺麗に使おうと思って、苦労して整えたのに、怒るに怒れないのは、氷月さんが可愛すぎるせいだ。
色気と子供っぽさが同居したたおやかさ。スラッと伸びた手足が大人であることを強調して背徳感すらある。
「ふんっ、また敷けばいいじゃない」
「そしたらまた剝ぐんだろう? いたちごっこじゃないか」
「そうよ。私は諦めないからね。八重山が根負けするまで何度だって剥がしてやるんだから」
「いっそ凛が敷布団で寝るというのは?」
「…………………その手があったか」
僕は余計な事を言ってしまった気がする。
それから氷月さんは枕を回収すると、部屋にある物を全部ベッドの上に放り投げた。もう布団で寝るつもりなのだろう。アナログゲーム、お菓子、僕のカバンなどなど、みるみるうちにベッドが物で埋まっていった。
「あのさぁ、凜」
「なぁに?」
「僕は男なわけだし、君は女の子だ。こう見えても君の事が大好きだし、女性として見るときも、ある。一緒の布団で寝て間違いを起こしてしまったら、僕は未来さんにも正二さんにも顔向けできない。僕たちは初めてお泊りデートをするのだから、保つべき距離があるのではないかと思うんだ」
「それってさーぁ?」
「ん?」
氷月さんは床にぺたんと座り込むと、真正面に座っている僕をジッと見上げて「私が襲えば何の問題も無いってこと?」と、猫耳付きの無垢な瞳。
「…………………」
とたんに空気がピシッと固まったように感じた。氷月さんの反撃は予想していなかった。
いや……予想できたはずなのに、いつからか、僕が引っ張らなければいけないと思っていたのだ。
嬉しいかと訊かれたら嬉しい。しかし、急に言われるとどう返したらいいのか分からなくなる。背中から刺された気分だった。
「あのさぁ、女の子が、こういうことしないと思ってる?」
「僕は君を傷つけたくないと、言っているんだけど」
「私を女にしてほしいって……お願い、八重山にしかしないよ…………」
「凛…………」
「もう、我慢いっぱいしたよ。もう、できないよ……」
氷月さんの唇が近づいてくる。目を閉じて、チューリップのような口が近づいてくる。
だめだよと言おうとして、僕はハッと気づいた。
隠さなければいけない人はもういない。これからは関係を隠すよりも僕たちがどう生きるかということが大切なのだと、気づいた。
我慢するのではなくて受け入れてしまってもいいのだと気づいたのだ。
僕ははやる気持ちを抑えて氷月さんのほおに手を添えた。
「凛、いい?」
「いいよ……」
そうだ。これからはこの人を幸せにすることを考えてもいいのだ。
もっと氷月さんの笑顔を見たいと望んでもいいし、もっと氷月さんのことを知っても良いのだ。
これからは僕たちだけの時間なのだ。
氷月さんを受け入れる第一歩がこのキスなのだとしたら、僕はきちんと受け止めよう。
今日を境にすべてを変えよう。
そう思った。
「あ、凛ーーーー?」
しかしノックの音。
「お菓子を持って行ったけど、寝る前にはちゃんと歯を磨くのよーー?」
「ぎゃーーーーーーー!」
「あ、あらあらあら……お取り込み中だったかしら」
人間万事塞翁が馬。望み通りに進むことの方が少ないのである。
「お、お母さん! 入るならノックくらいしてよ!」
「こんこんこん」
「もう遅い!」
氷月さんは犬歯を剥き出して怒った。
僕はその様子を見ているうちに清流が体の中を流れているような清々しい気分になった。「ふ……あはは……」
「何笑ってんのよー! もう最悪! 雰囲気台無しじゃないの!」
「いや……僕達らしいなと思って」
「なによそれ……私はいつまで我慢すればいいのよー!」
「もうしなくていいよ」
「へ、―――――――――へっ!?」
未来さんが見ているけれど構わなかった。氷月さんは驚いているけどそれでいいと思った。
もう、こういう関係なのだ。
実は、僕も無意識に我慢していたらしい。
「あら、あらあらあら……」
「ん………んむ…………」
「……ぷはっ、はぁ……あの、怒ってます………?」
「あんた……一回くらいまともなキスが出来ないのかーーーー!」
「あうあうあうあう……やめて、凜。目が回ってきた」
「知らんわバカ! ばーーーーーーか!」
氷月さんが肩を掴んで揺さぶってくる。
怒りなのか恥ずかしさなのか、嬉しさの裏返しなのか、あるいは思い通りに事が進まない憤りを含んでいるのか、氷月さんは僕を押し倒すように突き放すと「お母さんは出てって!」とドアをバタンと閉めた。
「もういいよ……八重山がそのつもりならもういい。もう我慢なんてしないから、したい事ぜんぶしてやる!」
「あいててて………凛?」
氷月さんは僕の腹の上にまたがると、パジャマのボタンに手をかけて
「いつもいつもいつも私の心をかき乱すだけかき乱して子供みたいに澄まさないでよね!」
と叫んで服を脱ぎ始めた。黒いブラジャーがあらわになって、
下腹部の柔らかい重みに全神経が集中するようで………
氷月さんから目が離せなくなって
「それで?」と訊くと、
「……………あぅ」
と首元のボタンを一つ残したまま、ピシッと固まった。
手を伸ばすと自分から倒れてきた。
それから先の嬉し恥ずかしの妙味について語る事は控えることにする。
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