第59話


 それから僕達は氷月さんの実家へと向かった。


 会場を出ると小さな白い車が僕達の前に止まる。窓がウィーンと動いて、未来さんが「乗りな」と言った。


 氷月さんの家へはもう何度か行った事があるのだけど、こうあらためて出迎えられると少し緊張する。他人の家の車は知らない匂いがして、その匂いに出会うたびに僕は東京へ来たと感じるのだ。


「ねえねえ受かったよ! 私たち!」


「そうなの! 頑張ってたもんねぇ。おめでとう」


「うん!」


 氷月さんは車に飛び乗った。僕は縮こまって「お邪魔します」と足をかけた。


 東京に来た時はだいたい送迎をしてもらっているから何度も乗っているけれど、やはり一言断ってからでないと悪い事をしている気分になる。


 未来さんから家の住所を教えてもらっているのに、初めて訪問した時以来ずっと迎えに来てくれるのだから本当にありがたい。


「兼人くんも、よく頑張ったね。お母さんにはもう報告した?」


「いえ、まだ……」


「じゃあ今しちゃいな。きっとまだ結果が分からずもんもんしているよ」


 お言葉に甘えてスマホを開く。と、氷月さんが奪い取って「私がしちゃお! どうせ八重山の事だから受かったって一言だけで済ませるんだよきっと」


「その通りだけどそのまま言うなよ!」


「こういうのはね、ちゃんと感謝の気持ちも伝えないとダメなのよ。例えばこう……お母さん僕を産んでくれてありがとう。お母さんのおかげで僕はここまで来ることが出来ました。これからも大変なことがあると思いますがどうか遠くから見守っていてくださああああああ! ちょっと! 盗らないでよ! 変になっちゃったじゃん!」


「うるさい! 人の親に感謝するまえに自分の親に感謝しろ!」


「今は八重山として伝えてるの! お母さんには後で言うから!」


「お母さんは後なの? 悲しいなぁ」


「うっ……」


 暴走し始めた氷月さんを一言で沈めてしまった。母は強し。


 僕は手土産を取り出して助手席に置いた。「つまらない物ですけど」


「いえいえ、いつもありがとね。みんなでいただくわ」


「近所の和菓子ですけど……」


「いいのよ。お父さんのお気に入りだからむしろ嬉しいわ」


「それなら良かったです」


 そんな言葉を交わしながら窓の外を見る。いつも見る交差点。ここを左に曲がると氷月さんの家が見えてくる。それだけで僕の心はワクワクしてくるのだ。


 もう何度通ったか分からない。しかしこれからも何度も通う事になるのだと思うと、不思議と達成感が沸き上がってきた。


「ねえ、八重山」


「ん?」


 氷月さんが「できた!」とスマホを返してくるので、見ると、


『お母さんのおかげで僕はここまで大きくなれました。大変なこともたくさんあったけどお母さんの子供に生まれて本当に良かったと思っています。僕はこれからも頑張ります。お体に気を付けてお過ごしください。大好きなお母さん』と書かれていた。


「………………」


「どう? 真面目に書いてみたんだけど……いひゃいいひゃい! ほっへをひっはらないへ! なんへよ!」


「僕が『大好きなお母さん』なんて言葉を使うわけがないだろ! 君が打ったってすぐにバレる言葉を選ぶなよ! あの人には受かったとだけ言っておけばいいんだ!」


「心を込めて書いたのに!」


「だからまずは未来さんに言えっつってんだろ!」


「ほっぺがちぎれるからやめてーーーーーー!」


 こんな恥ずかしい言葉を僕が伝えるわけがない。帰ったらまた家族会議だ。氷月さんが彼女であると判明した時から母は「いつ孫を見せてくれるの?」としきりに言ってくるようになった。もううんざりだ。


「あの空気感は僕には耐えられない! ああもう既読がついた! ほらバレてる!」


「あ、同じスタンプ持ってる」


「そんな情報いらない!」


「……若い頃の私たちそっくり。ふふっ」


 未来さんは騒ぎ続ける僕達を見て、くすっと笑った。


     ☆☆☆


 氷月さんの家は小さな二階建ての家だ。最近建て替えたらしく、黄色い屋根と白い壁がレゴブロックみたいに可愛い。玄関の左上にある窓は氷月さんの部屋の窓である。


「じゃあ、後は2人でゆっくりどうぞ。お母さんはイヤホンして動画見てるから大きな声出しても大丈夫よー」


 と僕達が氷月さんの私室に入ると未来さんがドアを閉じた。気を利かせたつもりなのだろうけどその言い方はどうかと思う。あの言い方では何か間違いを起こせと言っているようなものだ。


 氷月さんの家系なのだからあの人も冷たいのだろうと思っていたけれど、七瀬母が特別冷たいだけなのではないか。そう思えてくる。


「ゆっくりって……言われても……」


 僕達は顔を見合わせた。冬の真昼間ということもあってか自然と距離が近くなる。暖を取ろうとする人間の本能だろうか。ベッドに背を預けて肩と肩を触れあわせて、伸ばした太ももまでも触れあって、ドキドキした。


 僕はすぐに足をひっこめた。


「………………」


「………………」


 東京へ頻繁に来ていたと言ってもその目的は勉強である。氷月さんとの勉強会がほとんどだった。


 その口実が無くなって、改めてフラットな時間が訪れると……僕は何をしたらいいのか分からなくなる。


 鼓膜に水がへばりついたみたいだ。喉が詰まる。


 氷月さんってこんなに綺麗だったっけ?


 何か話そう。


 何を話したらいい?


 僕の頭は空転するばかりで同じ問いを繰り返した。


 と、氷月さんが突然抱き着いてきた。心臓を重ね合わせるみたいに強く抱きしめられる。「問題です。どっちがドキドキしてるでしょうか」なんて言う。


 どっちが? 僕の方に決まってるだろう。と言いかけて、氷月さんの胸を通して伝わるドキドキに気が付いた。


「……どっちも」


「正解……ねぇ、こんな時間、夢みたい」


「……うん」


「もう来ないと思ってた」


「うん」


「お月様みたいに遠くて、いつでも見えるのに、もう手が届かないんだって思ってたんだ」


「僕は馬鹿だからね」


「……でも受かったでしょ」


「…………うん」


 氷月さんは一言一言を言い聞かせるみたいにハッキリと、静かに口にした。


「八重山は私の事を真剣に考えてくれてた。だから今度は私が頑張る番だって思ったんだ。結果が出るまでは付き合わないって決めてた。そうしないと甘えちゃうと思って」


「僕は本当に怖かったぞ。落ちたらもう二度と会えないと思ってた」


「えへへ……ごめんね。別れるつもりなんてなかったよ。ただ、緊張感って必要だと思うんだ。好きだけじゃどうにもならない事がある。こうやって最高の結果を出せたのは私たちが頑張ったからだよ」


「……本当にね」


 僕は天井を見上げた。


 本当に頑張った。頑張るあまり勉強とバイトしかしてなかったから読者諸賢に語る必要もないと思って割愛させていただいたけれど、本当に頑張ったのだ。


 日夜断行される英単語の独唱。授業が終わるや否や教師を捕まえて質問攻めにあわせ、単語帳を作っただけで満足してしまったりもした。来栖の大学進学がバレー推薦で決まったり、ゆりねが全国1位の大学にしれっとA判定を貰っていたり、バイト中の休憩時間もゆりねに勉強を教わっていたら嫉妬した来栖が横やりを入れてきたと思えば2人がいつの間にか親友になっていたりと、本当に色々あった。が、本筋とは関係が無いので割愛する。


 数多の困難を乗り越えてここまで来たのだ。僕達は本当に頑張った。それは認めても良いだろう。


「……でさ」


「うん?」


「もう、しないの?」


「何を」と僕が顔を戻すと、真っ赤な顔をした氷月さんと目が合った。


 頬は真っ赤だけれど目は真剣である。ジッと細められた刀のような目。


「あれだけしつこく告白しておいてさ、もう、しないの?」


「………………」


「……してよ。八重山から言って欲しい」


 僕は東京を訪れるたびに氷月さんに付き合ってくれと伝えていたのだがすべて無視されていた。それは今日のためにという目的があって仕方なくやっていたのだろうけれど、今度は正反対にゴールもボールも用意されているのである。


 あとは蹴れば良いだけ。


 だからこんなに緊張するのだろうか。


「……………」


「……………」


「…………あのさ」


「………うん」


「………あの」


「……うん」


 氷月さんは口を真一文字に結んでジッと僕を見つめている。


 付き合ってくれ。


 そう伝えるだけでいいのだ。


「………………」


 それだけでいいのに、どうしても言葉が出てこない。


 口から心臓が飛び出そうだ。口を開いた瞬間にぽろっとこぼれ落ちてしまうのではないかと怖くなる。それくらい緊張していた。


 けれど氷月さんは待った。


 どうしても僕に言わせたいらしい。


 真剣な顔をして、ジッと僕を見つめた。


「……………」


 唾を呑む音が氷月さんにも聞こえるのではないかと思うほど大きかった。乾ききった喉を押し広げる、飴玉のように大きい生唾。


 ああ、なんて気持ち悪い。


 付き合ってくれと伝えるだけで良いのだ。


「………つ」


「……………」


「……付き合って………」


 僕は喘ぐように口をパクパクさせていた。


「誰と?」


 氷月さんがイジワルにもそう言う。分かっているくせに。


 僕が誰を好きなのかなんて分かっているくせに。そう問い返すのだ。


 僕は天井を見上げて深い息を吐くと、そのまま目をつむって、


「僕と、付き合ってください!」


 と、大声で言った。一生分のドキドキを吐き出すようだった。心臓が飛び出なかったのが意外だった。


 氷月さんは驚いたのか目を丸くしたけれど、すぐに泣きそうな顔をして、


「うん。よろしくお願いします」


 ……本当に泣き出した。


 こうして僕達は再び付き合うことになった。


     ☆☆☆


 すぐに夕方になった。


 楽しい時ほど過ぎるのが早い。まだまだ話し足りない僕達を置き去りにして太陽は沈んでいった。沈まなければ夜も来ないのに。もう少し頑張れよ、と僕は思う。


「……あれ、どうしてカバンを背負っているの?」


 玄関で靴を履く僕を不思議そうに見下ろして氷月さんが言った。


 僕はかかとを整えながら「帰るから」と答える。


「なんで?」


「なんでって……父さんと母さんに報告しなきゃだし?」


「帰さないけど」


「は?」


「絶対に帰さないけど? ていうか帰るなんて聞いてないし。寝かさないし? 今日はずっと起きてるんだよ?」


 徐々に氷月さんの顔色が黒くなっていく。


 怖い。この人怖い。


「だってお菓子いっぱい買ってあるんだよ。新しいパジャマ買ったんだよ? 彼女のパジャマ姿を見ずに帰るわけ? へー、興味がないんだぁ。八重山ってそういうヤツなんだぁ、ふーん」


「いや、だって、凜だって今日は家族でお祝いするだろ? 水入らずでさ。そこへ僕が割り込むのはさすがに度が過ぎているというか……」


「やだやだやだやだやだやだ! 八重山がいないとやだーーーーーーー!」


 氷月さんがとうとう壊れた。この1年間我慢を強いてしまったから仕方がないとはいえ、メンテナンスの不備は僕の責任ではない。と、そこへ狙いすましたかのようにラインが1件。


『今日泊るんでしょ? お父さんも仕事で遅くなるみたいだから、あんたの合格祝いはまた今度ね』


「……薄情」僕はそのラインを見て、やっぱり一言だけで良かったと思った。


 氷月さんがめざとく気づいて「それ、お母さんからのライン?」


「違う。断じて違う」


「泊まって良いか聞いてくれたんだ?」


「違う! そんなことは聞いていない!」


「おかあさーーーん! 八重山が泊まりたいってさーーーー!」


「言ってない!」


 ああもう、どうしてこうなるんだろう? どうしてこう、氷月さんに都合が良いように事態が進行していくのだろう? いやしかし、未来さんは母親だ。親として娘の純情は守ろうとするだろう。というか氷月さんの合格祝いを用意していないわけがないので僕はどっちみちお邪魔虫だ。


「良かったわねぇ。ずっと準備してたもんね」


「うん!」


 了承済みか!


「いや、だから! 泊らないよ気まずいから!」


 僕は断固として戦ったが、女性2人の圧に勝てるわけもなく……


「……泊まります……」


「よろしい!」


 着替えだけは買いに行こうということになった。

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