最終話
その日の夜である。氷月さんの私室である。
彼女の部屋には物がない。
建て替えるときに要らないものを捨ててそのあとすぐに七瀬家へ越したから買いそろえる時間が無かったのだという。
シャワーの音。
氷月さんがシャワーを浴びている音が響くのは、部屋に物が無いせいだろう。風呂場の真上に部屋があるせいでもあるだろう。
「……………」
断じてやましい妄想などしていない。けれど、氷月さんの一糸まとわぬ姿が脳内に浮かび上がるのは避けられない事だった。シャワーの音に混じって氷月さんの鼻歌が聞こえてくるのだからなお
しぃんとした部屋にかすかに響く氷月さんの鼻歌&シャワーがセイレーンのごとく僕をお風呂場に誘っている。
「……ええい、このまま部屋にいたら頭がおかしくなる!」
僕は頭を冷やそうと部屋を出た。リビングと一体型のキッチンの向こうで未来さんが皿を洗い、ソファに座って酒をたしなむ氷月さんの父(氷月
階段を降りた僕を見つけると正二さんは缶ビールを傾けながら「……落ち着かないかい?」と楽しそうに聞いた。
「ええ………」
結婚初夜ってこんな気分なんですか? なんて馬鹿な質問が頭をよぎる。あのシャワーのせいだ。
「ははは……だろうね。私も初めて未来の家に泊った時はソワソワしたよ」
正二さんはビールをコップに注ぐと隣に座るように僕を促した。晩酌をしようということだろうか。義理の父になる人の誘いは断りたくないが、お酒は二十歳を超えてから……
「あなた? 兼人君にお酒はダメよ?」
すぐに未来さんに取り上げられた。
良かった。
「凛はな、良い事があった日は必ず歌うんだ。風呂場でな。子供の頃からずっとそうだった」
「そうなんですか。今日は大学に受かったし、上機嫌ですね」
「うん。中学に入ってからはあまり歌わなくなったがね。小学校の頃は特撮ヒーローの主題歌を大熱唱さ……女の子向けのアニメや漫画を読まない子でね。少年向けの漫画ばかり読んでいたよ……意外だろ?」
意外ではあったけど変ではないと思った。「いえ、可愛いなと、思います」
「はははっ、そうかそうか。それなら良かった」
僕もぷ○きゅあを見ていた時期があるから何も言わなかったが、昔の氷月さんはどんな子だったのだろう。もっと元気だったのだろうか。明るかったのだろうか。ちょっと見てみたい気がした。
「君が東京に来るようになってからはしょっちゅう歌っているよ。近所迷惑だ」
「それだけ良い事があったって事でしょうか。東京でも楽しくやっているようで何よりです」
「………たしかにこっちでも友達は作っていたが、本当にそれだけだと思うかい?」
正二さんがジッと見てくる。娘の彼氏が目の前にいるのだから内心穏やかではないだろう。視線が痛い。男としての価値を見定めるような視線が痛い。
「娘が昔の明るさを取り戻したのは、君と出会ったからだと私は思うんだ。こっちに帰ってくると聞いた時は本当に驚いたけど、でも、話を聞けば君と娘はもう深い仲だそうじゃないか」
「そう……でしょうか?」
……深いだろうか? 数回デートをした記憶はあるが、それも散歩のようなものだ。正二さんが何かを勘違いしている……いや、氷月さんが変な伝え方をしたに決まっているのだ。
「君は娘の事をどう思っている?」
「どう……と言われましても……僕にはもったいないと思います」
僕はおっかなびっくり答えた。
氷月さんがどう伝えたのか分からないのだから、正二さんの言葉から探るしかない。下手な事を言うと誤解される恐れがあるのだから、僕は嫌でも慎重になった。
「あれで家事が全くできないんだよ。花嫁修業どころか一人暮らしさえも怖くてさせられたもんじゃない。そう聞いても同じことが言えるかい」
「……家事は、いま、僕が練習中ですから問題ないと思います。それに凛……娘さんなら自分で何とかすると思います」
「ははは……同棲する準備は出来てるというわけだね」
「へ?」寝耳に水だった。「いや、僕は同棲するのはまだ早いと思ってます。しかるべき順序を踏んでから……少なくとも大学に行ってる間は一人暮らしをするつもりですけど」
「そうなのか? 凛は大学に入ったら家を出ると言っているんだが」
「……はい? 家を出るっていうのはその……僕と暮らすつもりだと?」
「そう言っていたがね」
なんだ? どう伝えたのだ? まさか「一緒に寝たことがある」なんて伝え方をしたわけではないと信じたいが……。
「もう子供ができた……と、言っていたっけなぁ」
「はぁあ!?」
僕は思わずむせた。「ごほっ、ごほっ、待ってください! 僕たちはお泊りしたことも無くて……!」
「でも娘がそう言うんだよ」
「いやいやちょっと!」
子供ができてるだって!? 僕達はまだそういうことをしていないのに!?
僕が仰天していると、ちょうど氷月さんがお風呂から上がってきた。
「ふぅさっぱりした~。八重山も入っちゃいな~」
「ちょっとこっちに来て!」
「へっ!? 何!? いくらお風呂上りの私が色っぽいからっていきなりそんな!」
「馬鹿な事言ってないでこっちに来い!」
「あ~~れ~~~!」
僕は氷月さんを連れて2階へ上がった。少し乱暴に腕を取ってしまったにも関わらず彼女は嬉しそうだったし、階段を上がるころには僕より前に出ていた。
嘘をつくにしたってもっとまともな嘘があると思う。僕は清い付き合いをしていると信じていただけにショックだ。
「あれはどういうことだ! 子供ができたってそんな……いくらなんでも!」
「だって、キス……したじゃん」
「……え?」
しごく真面目な顔で氷月さんは言った。
「キスしたら、子供ができるんだよ?」
「……………」
天然記念物……だろうか。僕の手には負えないような気がしてきた。
☆☆☆
一方、部屋へと逃げる僕達を見送った正二さんと未来さん。
未来さんは困ったような顔をしていたが、正二さんは愉快そうにくつくつと喉を鳴らしながら「手を握ったら子供ができると信じていた君よりはマシだな」
「………我が娘ながら、恥ずかしい」
「真面目そうな子じゃないか。兼人くん……だったかな。彼なら凛を任せても良いかもしれないねぇ」
「……………あなたから見て、私って、子供?」
「いろんな一面があって可愛らしいと思うよ」
「……………」
蛙の子は蛙ということだろう。顔を赤らめて俯く未来さんをちらっと見てから正二さんは缶ビールを空けた。
「昔の私たちを見ているようじゃないか」
☆☆☆
それから僕と氷月さんの仲がどのように進展したのか。その結末は読者諸賢の想像に任せたいと思う。あの日。僕と氷月さんが妙な巡り合わせで付き合う事になってから色々な事があった。僕達は普通ではない恋愛をしたように思うし、ありふれた恋だったようにも思う。
結局、当初の目的である大人の世界を知ることは叶わなかった。
ただ、氷月凜が八重山凛になり、名前を呼ぶたびに「やえや……ま、は私もだ」とはにかむ凛はとても大人びて見える。
まだ高校生だった僕が出会い系アプリを使ってみたら学校一の美少女とマッチングしてありふれた幸せを手に入れた。
ただそれだけのお話であった。
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