第56話


 さようならを告げられたのは引っ越しの当日だった。


『駅前に来て』


『なんで?』


『いいから』


 というラインのやり取りを前日の夜に行っただけで詳しい説明は一切なく、僕は何が何だかよく分からないままに駅前へと赴いた。


 しかし嫌な予感はあった。


 七瀬とのデートの事がある。それで何か良くない事が起こったのだろうということは想像に難くないけれど、僕は駅前に集合させる意味が分からなかった。


 駅前に着く。昨年改装工事を終えた駅前は現代的な連続水平窓がしつらえられており、白いモダンな外観が目にまぶしい。僕は構内に氷月さんの姿を見つけると駆け寄った。


「凛。いったいどうしたんだ?」


「……………」


「………凛? 何か言われたのか? ……その、女の人は?」


 氷月さんの隣には整った身なりをした女性の姿があった。歳の頃は30代後半くらいだろうか。氷月さんに似た綺麗な人である。


 その人は目が合うと「あなたが八重山兼人君? 初めまして」と頭を下げた。


 つられて僕も頭を下げる。


 氷月さんはその人をお母さんだと言って紹介した。


「氷月未来です。娘がいつもお世話になってます」


「あ、いえ、こちらこそ凛さんにはいつもよくしていただいて……」


 しかし、なぜ氷月さんのお母さんがここに居るんだろう? 氷月さんの実家に住んでいて遠い所にいるはずのお母さんが?


 未来さんは「若いのにしっかりした子だ」と言って笑ったが、氷月さんは後ろめたそうに俯いた。


「あの、いったい……?」


「ごめんなさい。凛は転校するの」


「え」


「2学期から東京の学校に通う事になったの。今日、引っ越すのよ」


「…………え?」


 理解が追い付かなかった。氷月さんが引っ越す。引っ越すという事は遠くへ行くという事で、遠くへ行くということは会えなくなるということで、会えなくなるというのは、どういうことなのだろう……? 


 僕の頭は数秒ほどフリーズした。ただ、もう氷月さんに会えないという事実だけは脳内に割って入りこむように理解していた。


 未来さんは駅の時計を見上げた。


「そういうことだから………電車が出るまで、2人でゆっくり話してきなさい」


「…………」


「…………」


 僕達は黙って顔を見合わせた。


「……引っ越すの?」


「うん」


「東京……だったんだ」


「うん」


「…………」


 僕はたださっき聞いた事を繰り返した。僕の言葉は心の上ですべっているようだ。本当に言いたいのはこんな事じゃないのに。口に出すたびにずれていく気がする。


 氷月さんは頷くばかりで、それも、彼女の本心ではないように思えた。


 僕とは反対に傷を飲み込んでいるように見えた。


 未来さんはそんな僕達に背を向けてどこかへ行ってしまった。気を遣ってくれたのだと思う。僕達が付き合っている事を知っているような口ぶりが、最後の別れを言いなさいと言外に伝えているようで僕は知らず知らず緊張していた。


「……ごめんなさい」


「……別にこれが最後ってわけではないんだから謝らなくていいよ。落ち着いたら会いに行くから」


「うん……」


「……………」


「……………」


 伝えたい事は山ほどあった。今言わないといけない言葉がたくさんあるのに、それは全部分かっているのに、口を開こうとしたら全部忘れてしまって、頭が真っ白になってしまって、(あ……緊張しているんだ……)というどうでもいい事だけがポンと浮かんでくる。


 そうしているうちに氷月さんが「……時間」と呟いた。


「もう、行くのか」


「うん、着いたら連絡するね」


「……うん」


 未来さんが戻ってきて氷月さんの手を引く。


「それじゃあ、バイバイ、八重山」


「うん、またね」


 氷月さんは肩越しに振り返って、笑っていた。心が痛くなるくらい綺麗な笑顔だった。


 これでさよならなのか。


 そう思った僕は……


「――――――待って!」


「………八重山」


 僕は、気づいたら氷月さんに抱き着いていた。


「待って。なんで、なんで凛とお別れしなきゃいけないんだよ。そんなのおかしいだろ、だって……」


「仕方がないよ。……だって、そうなっちゃったんだもの」


「嫌だ、認めたくない。どうして好きなのに離れ離れにならなきゃいけないんだよ。僕は君が好きだ。大好きだ。なのに君は遠くへ行くのか」


「………だって、そうするしか……」


「嫌だ……いかないでくれよ………僕は嫌だ………」


「ワガママ………言わないでよ………」


 たぶん、僕の記憶違いでなければ、初めて言ったはずだ。


 氷月さんが大好きだと面と向かって伝えたのはこれが一番最初のはず。こんな形で伝えることになったのは大変遺憾である。涙まじりでかっこ悪い。


「私だって行きたくないよ……離れたくないよ……今だって我慢してるのにさ、泣かれたら……八重山が……我慢できないのに……私が我慢できるわけ………」


 氷月さんまで泣かせてしまった。


 僕は本当にダメだ。


「ごめんな……凛……僕も本当は子供なんだ……隠してたけど……本当は、君を支えられるほど大人じゃないんだ……」


「知ってるよ……八重山の子供っぽいところ……すぐにムスッとするし、いじっぱりだし、自分勝手だし、すぐに顔を赤くする……いっぱい知ってる。そういうところを見るとさ、私とおんなじだって思って……ホッとするんだ……支えてくれなくたっていいんだよ……いつもの八重山が好きなんだ……」


 なぁんだ、全部バレてるんじゃないか……


「僕だって、凜のギャップの激しい所も我慢できない所も明るい所も気難しい所も全部好きだ。いちいち数え上げるのも嫌になるくらい、可愛いって思う瞬間が何度もあるんだよ。君と別れたままさよならなんて出来ない。付き合ってくれ。僕ともう一度付き合ってくれ」


「いやだ!」


「なんでだよ!」


「だって!」と叫んだ氷月さんは僕の手を払って、クルリと振り向いた。


「だって……付き合ったら、離れるのが辛くなる。いまだって辛いのに、八重山と会うたびに別れなきゃって、思うと……辛くて……我慢なんて、想像しただけで胸が苦しくなる……それならいっそ……いっそ……」


 小さな目に涙をいっぱいに溜めていた。


「もう……別れたまんまの方が……いい……」


「そんな……」


「ごめん………ごめんなさい!」


 氷月さんは逃げるように走り出した。


「待ってよ!」


 僕は追いかけようとしたが、未来さんに止められた。


「どうして止めるんですか!」


「いまはそっとしておいてあげて。時間が経てば、きっと、元気になるから」


「……………」


「あの子も、こんな事を言いたかったわけじゃないと思うの」


「……それくらい、分かります」


「……ふふ、ならよかった」


 未来さんはポケットから何かを取り出すと僕に渡しながらこう言った。


「きっと、会いに来てね」


「……はい」


「あの子も好きだと思うわ。あなたのことが」


「……だと良いんですけど」


 ハッキリと言われたからだろうか。僕は自信を無くしていた。


「大丈夫よ! あなたならきっと大丈夫。だって似てるんだもの」


「……誰に、ですか?」


「私の夫。よく言うでしょ? 女の子は父親に似た人を好きになるって。だから大丈夫よ」


「…………」


「って、なんで私がこんな事伝えなければいけないのかしら。高校生の男の子に?」


「それは知りませんけど……」


「あー恥ずかしい恥ずかしい。それじゃあ、もう行くわね」


 未来さんはスタスタと歩いて行ってしまった。


 一人残された僕は、どうすることもできず、渡された物をジッと見つめていた。

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