第52話


 その日の夜、氷月さんに電話をかけるとワンコールで出た。


「八重山ごめんっ! まさかスマホ取られるなんて思わなかったんだけど、心配させたよね。本当にごめんね。嫌いになったわけじゃないからね。むしろ嫌われたんじゃないかって心配で心配で――――――」


 と、通話が繋がるや否やマシンガントークである。放っておいたら永久に謝罪し続けそうなので強引に話を止めた。


「ぜんぜん連絡が返ってこないから、むしろ嫌われてる事は無いと思っていたよ。嫌われてるんなら何か言われるはずだから」


「さすが八重山。しーちゃんのワガママに付き合わせちゃってごめんね」


「それもいいよ。聞けば可哀相な境遇だしね。しかし、君と別れたとは思っていないから。それだけ勘違いしないように」


「……怒ってる?」


「怒ってる。が、事情があるし、アプリを人質にとられたらしょうがない」


 僕はため息をついて言った。読者諸賢はもうお察しの事と思うが、七瀬星は出会い系を氷月さんのスマホで使っていたのである。僕達はもうアプリを消したのだけれどインストールしたという履歴はインターネット上に残る。つまり、出会い系の事を言われて困るのは僕と氷月さんだけ。一方的に七瀬に脅される立場にあるという事だ。


「……しーちゃんの力になってあげて。でもできれば、また私と付き合って」


「そう言うと思ったよ。どうすれば彼女が納得するのか分からないけれど、僕にできる事はなんだってしよう」


「かっこいいよぅ……別れたくないよぅ……」


「あのねぇ……」僕は頭を抱えた。「まぁいいけど。しかし、なんで会おうと思った?」


「え?」


「従妹がアプリでやり取りしていた相手にどうして会おうと思ったんだ? その頃は僕がマッチングした相手だって事は知らなかったはずだよ。ヤバいヤツと会ってたらどうするつもりだったんだ」


「……怒らないでよ。だって、しーちゃんはとても良い子なんだよ。変な人とマッチングしてひどい事されたらと思うと、いてもたってもいられなくて」


「だからそれで君がひどい事をされたらどうするつもりだったんだって訊いてるんだ」


「私は、どうなってもいいと思ってた……」


「はぁ?」


 たしかに僕は怒っていた。しかしそれは僕に黙って別れる事を決めたことに覚えた怒りではない。私はどうなっても良いという言葉に一番苛立ちを覚えた。どうなってもいいなんて、そんなわけがあるか。しかし氷月さんは僕の怒りに気づいていないのか「仮に手を出されても、私なら悲しむ人もいないと思って」とさらに怒りを煽る。


「…………………あのねぇ」


「………だって、あの頃の私は綺麗なだけだったから」


「…………………」


「………ごめんなさい」


「………でも、今は違うんだろ?」


「うん。どうなってもいいとは思わないな。いま同じことになっても星ちゃんの代わりに行くとは思うけど、まず八重山に相談すると思うよ」


「なら、いいんだけど………」


 僕はもっと自己肯定感を高く持って欲しいと思うのだ。どうしてこうも自分を大切にしないのだろうか?


「僕は悲しむからな」


 それだけは伝えておいた。


     ☆☆☆


 七瀬とのデートは困難を極めた。というのも、彼女は陸上部のエースなので、部活の予定が週5で埋まっている。そのうえ休みの日は部員同士の遊びの予定などが詰まっているという。男友達はおらずとも女子の友達はそこそこいるらしく、僕らのデートはもっぱら部活終わりに僕の家で行われた。


「本当にごめんなさい、先輩。付き合うなんて言っておいて時間も取れないで……」


「気にするな。普通のデートなんて出来なくてもいいんだ。僕と七瀬だけの付き合い方をすれば良い」


「でも、夜はスマホ使えないし、昼は部活だし、もっと先輩とお話したいんです」


「だからこうして僕の家にきてるんだろう? あのバス停で降りる人はいないし、七瀬が最後に降りるんだから、バレる心配がない」


「………ということは、何をしても良いわけですよね」


 七瀬はジャージのジッパーに手をかけるとジジジ……と下ろし始めた。朱色の真新しいジャージの下から、少しくたびれた体操服がのぞいた。七瀬は小柄でやせ型のために体操服もサイズが小さい。だからなのか、小さな胸が新芽のごとき突起を作って、その明らかな張りが大きいものよりも目を引いた。


「先輩、先輩……」


 と、七瀬はジャージだけ脱いで僕の膝の上に乗る。これが彼女の精一杯なのだった。以前は体操服を脱ぐことにも挑戦していたのだけど、恥ずかしさに耐え切れずどうしても脱ぐことができなかった。


「先輩……ぎゅー……」


「これでいいか?」僕は七瀬を抱きしめながら言う。


「もっと、もっと……ぎゅー……して」


「はいはい。ぎゅー、な」


 僕は首をもたげて七瀬の左ほおに自分の右ほおを触れさせる。これが彼女とのデートの大半を占めた。


 この甘えん坊状態の七瀬を僕はスイッチが切れたと表現する。


 まったく、いつもの毅然とした態度が電源を切るかのごとくに切り替わるのだ。ワガママだらけで甘えん坊で小さな子供みたいになる。それはおそらく、今まで自分を律していた分の反動が表れているように僕は思う。


「先輩。好きって言って」


「好きだよ」


「もっと」


「好き。大好きだよ」


 耳に口を添えて囁く。それだけで七瀬は満足して「えへへ……」ととろけるような声で笑う。


 こんなもので良いのかと思う反面、来栖みたいな事をせずに済んだのは僕の罪悪感を減らした。


 氷月さんとしてない事を他の女子とするのは気が引ける。が、抱っこで良いならいくらでもする。それで喜んでくれるならウィンウィンだ。


 もっと話したいと言っていたのに黙って抱き合うだけで良いのかと思う。けれど、七瀬の表情は今の時間を味わっているように見えるので、野暮な事は言わないでおこうと思う。

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