第50話


「ここは人目がありますから、誰もいない所へ行きましょう」


 七瀬は僕の手を引いて立ち上がった。


「なぜ。人に見られて困るのはやましい事を企んでいるヤツだけだ。僕は勉強をしたいんだが?」


「いま私が叫べば、痴漢のレッテルを張る事だって可能だと思います。それとも未成年禁止のアプリを使った事を公然と話すおつもりですか? 私はそれでもかまいませんが先輩に不利益が生じるのは本意ではありません。大人しく付いてきていただけると双方恥をかかずに済むと思うのです」


「……せめてこの宿題が終わるまで待って欲しい。中断すると再開するのが大変なんだ」


「ダメです。今すぐ来ていただかないと大声を出しますよ」


「僕は余裕のある人が好きだ。君はもっと大人びていると思っていたが――」


「待ちます。余裕のある大人なので」


 七瀬はスッと椅子に座った。


 もしかしたら氷月さんよりも扱いやすいかもしれない。


     ☆☆☆


「先輩、運動部の女子は好きですか?」


「それは趣味趣向として訊いているのかそれとも恋愛対象として訊いているのか、どっちだ?」


「どっちもです包括してお答えください」


 七瀬は頻繁に僕に話しかけた。肩が触れんばかりの距離でノートと僕の顔を見比べている。そんなことを続けてはや30分。飽きないのだろうか?


「先輩は来栖さんと長年の付き合いだと聞きました。やっぱりバレーの方が良いんですか? 胸が無いとダメなんですか?」


「来栖は別枠だ。あれはあっちからちょっかいをかけてくるから話しているだけであってバレー部がどうとかは関係ない」


「でも楽しそうです。私もあんなふうに男子と話してみたいです」


「なら他を当たってくれ。僕はいつもこの調子だから」


「だから、その先輩が楽しそうに見えるんです。どうして? あの人、胸が大きいだけじゃないですか」


 七瀬は悔しそうに頬を膨らませた。


「君はやけに来栖の方を気にするんだな。実際に付き合っているのは君の従姉の方なのに?」


「ひづ姉さんは問題ありません。あの人は恋に恋しているだけですから。それよりも問題は幼馴染さんです。先輩と2人きりの時間を邪魔する可能性が一番高いのはあの人です」


 七瀬はこんなふうに喋り続けた。いったい男嫌いとは何だったのか? むしろ興味津々の様子で質問を投げかけ続けるので僕はだんだん嫌になってきた。「七瀬さん。しっ」と人差し指を立てると「………ごめんなさい」と静かになった。


 それからしばらくは無言で宿題を進めた。そうなると手持ち無沙汰なようで七瀬はピンクのワンピースの裾を盛り上げたり引っ張ったりしていじいじしている。


 なんだかご飯を前にして待てをしている犬のようだ。


 これが氷月さんなら構わず話し続けるのかもしれないが、彼女の方が真面目なのだろう。真面目な子に意地悪するのは僕の趣味ではない。


「分かったよ……場所を変えよう」と僕が言うとパッと顔を輝かせて「はいっ!」と立ち上がった。


 というわけで昼ご飯を食べていないらしい七瀬を連れてファミレスに行くことにした。


 かつて氷月さんと訪れた時はカップル用のメニューがあったりして騙された記憶があるが、七瀬はそんな事をせず、和風パスタを頼んだ。


「先輩も何か食べませんか?」


 僕はゆりねと会った時に軽い食事を済ませていたのでミルクティーだけ頼んだ。しかし、乙女心的には自分だけ食べるのが恥ずかしいらしく、しきりに何か頼めと頼んでくる。


「じゃあ、カルボナーラのミニサイズを」


「なぜ?」


「和風に飽きたらシェアできるだろう? 君はそういう事を―――」


「したいです!」


「……と思ったから、同じパスタにする。僕はお腹が空いていないから」


 ミルクティーとカルボナーラ。食べ合わせが悪い気がするが、まあ、いいか。僕も和風パスタをもらえばいい。


「……それで、先輩とひづ姉さんの事なんですけど」


 と、届いたパスタをくるくる巻きながら七瀬が口火を切った。


「最近の姉さんは様子が変です。先輩と付き合ってから腑抜けたようになって、家ではぎゃあぎゃあ騒いだりします。両親にバレるのも時間の問題。もしバレたら、姉さんはうちを追い出されるかもしれません。それは避けたいです。巻き込んだのは私なんですけど……」


「君の家の事は聞いているよ。たしか恋愛禁止とかなんとか。それなのにマッチングアプリなんて、なんでやったんだ?」


「禁止されているからです。ダメって言われたらやりたくなりませんか? マッチングアプリなら文字のやり取りだけで済むからバレないと思ったんですけどね……」


「会おう会おうとしきりに誘われた記憶があるが」


「うぐっ」


「相手が悪い大人だったり、体の関係を求めているとか思わなかったのか?」


「何回も断られるから意固地になって……ようやく会えると思ったらひづ姉さんに横取りされたんですよ? 私がどれだけ悔しかったか先輩には分からないと思います」


「悔しいか? 横取りされたの、これだぞ?」


 これ。すなわち僕自身を指さしながら言う。


「凛は終始あんな感じだから仕方がないとして、君はもっとしっかりした相手を見つけるべきだと思う。僕は君に見合うような男ではないぞ」


 七瀬がどれくらいすごいかはゆりねに聞いた。成績はクラス1位。部活は全国大会出場。書道コンクールで最優秀賞を取った数は数えきれないのだとか。そんなすごい人が彼女だなんて、逆に肩身が狭くなりそうだ。むしろ氷月さんが彼女で良かったとさえ思った。


 しかし七瀬は分かっていないと言いたげに首を振った。


「私は、みんなに褒められたくて頑張ってました。テストで100点を取るとか、大会で優勝するとか、とても、とても頑張りました。……でも、どれだけ頑張ってもおじい様は認めてくださらなかった。それどころか、もっと頑張れと言うんです」


「…………」


「一度、プロが参加するコンクールに出たことがあります。書道のコンクールなんですけどね。最優秀賞を取ったらご褒美をあげると言われて、頑張りました。私は認めてほしかった。おじい様に褒めてほしかった。結果は、最優秀を取りました。私は友達が欲しかったんです。部活、勉強、書道、私の人生って、この3つしかなかったんです。だから、もう書道は嫌いだった。やめさせてほしかった。……なのに、おじい様は何とおっしゃったと思います?」


 七瀬は俯いて、何か苦い物を吐き出すように小声でこう言った。「有名な先生の弟子になれるよう話をつけたからもっと頑張れ……と」


「……………………」


 僕と氷月さんの話はどこへ行ったのかなんて野暮なことは言わない。僕らの秘密を握る第三の存在である彼女が、いまここで打ち明ける言葉は、とても大事な事なのだ。


「私はそれから体調を崩して1週間ほど寝込みました。父と母の説得で書道をやめる事は許していただきました。……でも、でも」


「それなら勉強で1番を取れ。とでも言われたのか?」


「……………」七瀬はコクリと頷いた。


「だから、先輩が必要なんです」


「僕が?」


「はい。私はテストとか大会とかで活躍するのが幸せなんだって思い込んでいたんです。そう思い込むよう育てられたのかもしれません。でも先輩はそんなの気にしないでしょう? 全く違う価値観の先輩なら、自分の世界があって、考え方があって、自分のために生きている先輩なら、おじい様のような結果だけを求めることも無いんじゃないかなって、寄り添ってくれて、認めてくれるんじゃないかって、思うんです」


「……はぁ、それで凛から奪うと言ったのか」


「奪うという言い方は良くないですけどね。でも、気分的にはそうです」


 七瀬はテーブルに身を乗り出した僕の両手を掴むと真剣な表情をしてこう言った。


「先輩。ひづ姉さんと別れてください」

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