第46話


 引き続き宿題をしている。


 が、来栖が変な事を言うので、僕はふと彼氏彼女という関係について考えてしまった。


「恋人って、そんなに特別だろうか?」


「なに? 鼻折られたいの? バレー部のスナップを舐めるなよ?」


 来栖が顔をあげずに言った。


「彼氏とか彼女という肩書きの人は告白という手順を踏めば、極端な話、誰でもなれるだろう。そこに恋が無い告白だってあるかもしれない。付き合ってから冷めるカップルだって無数にある。けれど、幼馴染ってのは、それとは違う、一番特別な関係なんじゃなかろうか?」


「……ほぅ」


「恋とも友情とも違う。そのくせ一緒にいると安心する。愛でもない。変な関係だけど、いつまでも一緒にいられて、下手したら夫婦よりも明け透けな関係だ。僕に彼女ができても来栖がこうしているように、来栖に彼氏ができても僕はこうして過ごすと思う。それを浮気と言われたら僕は断固として抗議するつもりだ」


「……………」


「僕もさ、そこまで恋に真剣なわけではないけれど、来栖にしか見せない一面があると思うし、たぶん、いまが一番フラットな状態なんだよ。何も気負わないで良いというか、隠し事をしてもしなくてもいいというか、変な話だよな」


 古典の宿題は夏休みの宿題の中では最弱と呼ばれている。量が他の教科と比べて多くないのと、授業で取り上げたものと近しい題材から出題されるから非常に分かりやすい。


 早々に解き終えた僕はラスボスの一角たる英語に手を伸ばす。


 幼馴染というのは小さな頃からの積み重ねであると思う。その関係性は多種多様で、おそらく僕と来栖の関係は良好な部類に入るであろう。恋人とほぼ同等でかつ恋人よりも気の置けない今の関係は、たぶん誰にでも作れるようなものではない。僕はいまの関係に居心地の良さすら感じていた。


 と、その手を来栖が取って、何を考えているのか? 自分の胸の前にピトッと添えるではないか。


「これでも………」


「来栖、どうした?」


「これでも、幼馴染でいられるの?」


「…………」


「幼馴染なんて曖昧な関係だよ。けんジィがこの手をどうするかで簡単に変わっちゃうんだよ? ………それともけんジィは、これでもなびかないのかな」


「………………曖昧」


「……ああ、私、何言ってるんだろう。ダメなのに、こんな事言ったら、また凛を苦しませるのに………」


 来栖の手は震えていた。触れそうで触れない距離で僕の手を抱えて、戸惑っている。


 自分でもどうしたいのかが分からないのだろう。


 幼馴染は友達とも恋人とも微妙に違う関係。だからこそ友達よりも疎遠になりやすく、長く続く恋をすることもできる。と、来栖は言いたいのだろう。


 もし触れば来栖は受け入れるだろうし、触らなくとも来栖は受け入れると思う。けれど、明暗はくっきりと分かれている事はお互い分かっていた。


 触る事を拒絶したとき大きな亀裂が生じることも、分かっていた。


「愛が無くてもいいから……なんて言ったら、怒る?」


「こういう時に臆病になるなんて、ずるいぞ」


「吹っ切れたと思ってたんだよ。もうただの友達なんだって思って受け入れようとしたんだ。私は。なのに、一番特別なんて言われたら……困るよ」


「………………」


「けんジィは、性格や表情はその人だけのものっていうけど、体もその人だけのものだよ? 私の体は、私が作り上げた体。魅力的に見えるように、頑張ったんだよ。けんジィに見てもらえるように頑張ったんだよ。少しでも魅力的に見えるなら、ぜんぶ……」


「ぜんぶ……?」


 心臓が早鐘を打った。悪魔の誘惑であることは分かっていた。


 あたかもアダムとイブを楽園から追放せしめた禁断の果実。甘美で堕落的な快楽が目の前にある。


 性欲とは、かくも人を狂わせるものなのだ。


 体が火照るほどに、あべこべに背筋がゾッとするようだった。


「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」


 来栖はそう繰り返しながら、その地獄に足を踏み入れようとした。


 その時だった。


「このみちゃ~~~~ん! 今日は泊っていくの~~~~~?」


「え? わっ、わぁ~~~~~~~~!」


「わっ、ばか! 引っ張るな! 来栖!」


 階下から呼ぶ母さんの声に驚いた来栖が、思わず立ち上がろうとしたはずみで僕の腕を引っ張った。


「あ、やば……きゃあ!」


 突然引っ張られた僕は体を縮こまらせて、そのせいで今度は僕が来栖の腕を引っ張ってしまって、体幹を崩した来栖が僕の上に降ってくる。


「あ、あわわ、わわわわわわわわわわわわ」


 仰向けに倒れた僕の胸の上で来栖がテンパっている。あれほど蠱惑こわく的だった来栖の胸がいまは無造作にむにゅんと潰れている。


「おい、大丈夫か?」


「あわわわわわ、大丈夫じゃないです~~~~~~~~~!」


 来栖はばたばたと階下に駆けて行った。


 僕は開いたドアを見つめて呆気にとられた。


 時計が夕方の6時を指していた。

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