第45話
「ねえねえねえねえ、なんで宿題を終わらせてないの? もう8月になるよ? こんなペースで大丈夫なの?」
「それ、自問自答か?」
「そうですよーーーーーーーーー!」
8月に入ったばかりのある日。来栖が死にかけていた。
毎日が休日の夏休みになにを焦っているのだろう。
しかも僕の家に押しかけてくるとは、そうとう追い込まれていると見える。ガリガリガリとものすごい形相で宿題を片付ける来栖。僕も手分けして宿題を片付けてはいるけれど追いつかない。かなりの差をつけられている。それで正解を導いているかは別として、あとで見せてもらおうと思った。
「もう休みなんてないのに、いま終わらせないとまずいのに!」
「バレー部ってそんなに大変なのか?」
「大変なんてもんじゃないよーーーーー!」
「それで、うちに来てまでやる理由は?」
「監視役が欲しいのと、自分の部屋じゃないほうが集中できる」
「本音は?」
「宿題見せてほしかった! のにやってない! 無能!」
「言いすぎだ」
まったく宿題をやっていないもの同士なのだからそれはもう途方もない量である。
来栖は無理だーーー! と叫んでついに倒れた。倒れる勢いのまま両足をピンと天井に垂直に上げたせいで黒いレースのパンツを履いたお尻が丸見えになり、そののちにフワリとスカートが隠した。
諦めたくなる気持ちは分かるけれど、せめて恥じらいは持って欲しい。
「おい、パンツ」
「興奮した?」
「するかよ」
とはいえ運動部の太ももとはなぜもあんなに色情的なのか。僕は甚だ疑問だ。ていうか男友達の家に遊びに行くのにレースのパンツは無いだろう。
「はぁ、やっぱりけんジィは枯れてるなぁ」
来栖はごろんと横向きになると、スカートの端をつまんで持ち上げる。「これで興奮しないならあたしゃお手上げだよ」
「してるかもしれないだろ?」
「本当……?」
チラッと視線を送ると目が合った。すると来栖が唇を隠して反対の腕で胸を強調しつつ上体を起こすグラビアのようなポーズをしたのでため息を返す。
「やめろー! それなりに恥ずかしいんだよ!?」
「無駄な努力だ。水も過ぎれば毒というが、お前の場合はエロ過ぎて体が受け付けないんだ」
「エッチであることは認めてるんだ!?」
「だから他の女子に魅力を感じなかったのかもしれんな」
来栖はガバッと跳ね起き、四つん這いでドダドダと這い寄ってきた。怖い。
「ちょっとちょっとちょっと新情報なんですけど!?」
「実はずっと我慢してたんだ」
「ほぉ~らどうだ~~。薄いシャツを押し下げるおっきな谷間だぞ~~?」
「あ~~エロいエロい」
「……………」
沈黙が僕達を包む。来栖が机の上をチラッと見て崩れ落ちた。
「ほんとに興奮してるやつは
「お、昼ご飯の時間だ」
「色気より食い気……」と来栖は土下座のような体勢で沈み込んだ。
☆☆☆
昼はそうめん。これぞ日本の夏。窓を開けると爽やかな風がカーテンを叩いた。
「いやーあっついねぇ。もう夏本番だぁ」
「凛は昼に来るんだっけか」
「うん、そー」
卵白から取り出した卵黄をめんつゆに垂らしながら来栖が答えた。
不思議な食べ方をするものだと思う。
「それまでにできるとこまでやっときたいな」
「そだねーー」
くるくるとそうめんをつゆの中でかき混ぜてびよ~んと伸ばす。卵黄が薄い膜を張り、あまり美味しそうには見えない。
僕はしそを絡めてそうめんを食べる。そうめんのもっちり感にサッパリしたしその風味が絶妙な余韻を作り、そこへめんつゆの味わい深いダシの味が加わっていくらでも食べられるという寸法だ。これがそうめんの正しい食べ方と信じてやまない僕は異分子を見る目で来栖を見た。
「なんだその食べ方は」
「美味しいよ?」
「すき焼きの食べ方だろ、それ。夏と冬を混ぜるな」
「食べてみればいい」
「食べない」
まぁまぁ食べなさいってと来栖がにじり寄ってくるけれど、食べないったら食べない。
「さっさと続きをやろう。凛が来た時に終わってなかったら笑われるぞ」
「あ~~~ん」
「だから食べないって」
「あ~~~~~~~ん」
「……………………」
「あ~~~~~ん、って、しろっつってんでしょ~が!」
口をこじ開けてそうめんがねじ込まれる。濃厚な卵黄とごま油の妙味が舌を蹂躙し、しそのシンプルな味わいが上書きされていく。来栖がこれを美味いという理由はなんとなく分かる。そうめんなのに濃厚な味がする。しつこく残る卵黄の余韻がごま油でサッパリと流されて双方のうまみだけをずっと感じていられる。こんな食べ方があったのかと驚く反面、こんなのそうめんじゃない。と僕の中の日本人が叫ぶ。
「こんなのそうめんじゃない!」耐え切れず本当に叫んだ。
「美味しいって言え!」
「こんなのがそうめんだなんて、僕は断固として認めないぞ!」
「美味いでしょうが!」
「僕は卵と油なんかに屈しないからな!」
「ふんだ! いずれけんジィは虜になるのさ! 今の内にせいぜい足掻いておくと良い!」
来栖はそんな捨て台詞を残してそうめんをかき込んだ。「……あ、関節キス」
「それは恥ずかしいのか……」
たまにコイツの事が分からなくなる。
☆☆☆
ところが、氷月さんは来られないという事だった。
「家の都合だそうだ」
「じゃあ仕方ないか……私たちで頑張るしかないんだね……」
「そうだな」
2人して肩を落とし、しょぼしょぼと宿題を進める。成績優秀な氷月さんならかなりの宿題を終わらせていると期待していただけに、それを写す事ができないのは大きな誤算だ。
無言で宿題を進める。午前で体力を使いきってしまったかのごとく、僕達は押し黙っていた。
数学の宿題に終わりが見えたころ、来栖がぽつりと沈黙をやぶった。
「なんか、久しぶりだね。2人っきりって」
「そうか? ……あー、まぁ、ゆっくり過ごすのは久しぶりかもな。たまに話す事はあっても長い時間過ごす事はなかったかも」
「3人でいる事が増えてからは滅多になくなったよね。私は部活があるからってのも原因なんだけど、けんジィと2人っきりって、逆に新鮮かも」
「……………」
「……へへ、話しづらくなってたらどうしようって不安だったけど、安心したよ」
「安心?」
「そう」
顔をあげると、来栖は宿題とにらめっこしていた。
話半分の雑談らしい。僕もまた宿題に戻る。
「だってさ、この前まで恋がどうのとかやってたんだよ。普通なら友達いられなくなってたかもしれない。その友達の彼氏と2人きりになるならなおさらだよ」
「友達の彼氏って言い方は他人行儀すぎるな」
「うん。けんジィはそう思うかもしれないけど、私はやっぱり、凜の彼氏っていうふうに見ちゃうことがある。なんか、疎外感じゃないけど……ふと寂しくなったりするんだ」
「………………」
僕は何か言葉をかけようとした。けれど、どんな言葉をかけても救いが無いように思えたので、黙って、古典の宿題を進める事にした。
「だから、あんなバカみたいな事でまだ笑えるんだって分かって、安心したよ。帰る場所があるんだって、なんか、そんな気がしたんだ」
「…………」
「私の居場所を守ってくれてありがとう。新しい恋ができなかったらけんジィのせいだよ?」
「……いまはそのままでいいんじゃないか?」
「うん、そうだね」
それからしばらくの間。僕達は黙ってペンを走らせた。来栖が「あ、セミ……」と呟いて、初めてセミが鳴いている事に気が付いた。
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