第42話


 そもそもの話をすると、僕は、自分の気持ちを整理したことがないのである。


 脳髄のうずいは物を考える所にあらず。昔の小説にそんな言葉があるけれど、僕はまったくそれを証明するような事ばかりしていたように思う。


 いろんな情報を右から左へ流して片付けて、物事を収まるべきところへ収める事ばかりしていた1か月間だった。


 氷月さんの事、来栖の事、隠し事の事。こうしたらいい。こうすれば丸く収まる。そればかりを考えていて、僕がどうしたいかさえも、あたかも交通整理のようにあるべきところへ誘導する事を大事にしていた。


 自分の気持ちさえもと型にはめてしまっていて、その実、本当にどうしたいかなんて考えたことも無かったのである。


 その結果が氷月さんの不安と不信なら、僕は大バカ者なのだ。


 気持ちが大事とか、相手の事を想うとか、容姿以上の美しさとか、僕は教科書に書いてある言葉をそのまま音読したようなものだったのだ。


 外面ばかり良くて中身が無かったのだ。


 僕は馬鹿だ。僕は来栖に氷月さんを選ぶと言っておきながら、実は選んでいたのではなく利用しているだけだった。


 このままではいけない。言葉で伝える事は堂々巡りを繰り返すだけで氷月さんの安心には繋がらない。


 そう思った僕は、


「勘違い? それって―――――ッ!?」


 キスを、した。


「………………ん、んぅ、ぷはっ、八重山! なにするの!」


「なにって、キスを」


 氷月さんは当然怒った。


「脈絡! 順序! 私の気持ちは!? そんな乱暴な事をするなんて思わなかった!」


 氷月さんが顔を真っ赤にして僕を突き飛ばす。


 キスが無条件でロマンチックだと思うなかれ。シチュエーションや雰囲気、互いの好感度を無視して良い雰囲気になるキスなど存在しないのである。むしろ初めてだからこそ、相手の合意を求めるべきだった。


 氷月さんには氷月さんの気持ちがある。


 それを無視した僕が怒られるのは当然だ。「そうだよね。でも……余裕が無かったんだ」


「余裕? まさか、帰るって言ったの、怒ってると思った?」


「そうじゃないけど……そうかもしれない」


 僕はうなだれるしかなかった。


 氷月さんの言うとおりなのだ。


 僕は氷月さんに信じてほしかったし、悲しまないでほしかったし、誤解なく気持ちを伝えたかったし、好きでいてほしかった。


 氷月さんが帰ると言った時。なぜだかこれで終わりなんだって思った。


 いままで整理していなかっただけで、僕にも僕なりの気持ちがあって、こうしたいとかいう思いはあったのだ。それが、氷月さんの一言で爆発したのだろうと思う。


「こんな事をするつもりじゃなかった。もっと冷静になるべきだったのに、どうしてか何も考えられなかった。気づいたら……」


「…………………」


「……ごめん。僕の方が子供だ。自分の気持ちを押し付けて、ワガママで、したい事だけをする子供だ。凛の気持ちを考えたら、帰ってもらった方が互いのためになったのに、僕は焦っていた。凛がいなくなるんじゃないかと思って怖かったんだ。これが、僕の本心だよ。君が探ろうとした本当の僕だ。失望した?」


「…………うん」


 やっぱり。


 僕は目をつむってうなだれた。氷月さんがどんな顔をしているか見るのが怖くて、とても開けていられなかった。そうして自分を守るように自嘲気味に言葉を絞り出した。


「あはは、そりゃそうだ。僕だって僕に失望しているさ。まさか一番大事なところで体に気持ちを任せるなんて、そんな子供みたいな事をするなんて思わなかった。でも、これが僕なんだ。自分でも気づいていなかったんだからタチが悪いよな。あんだけ偉そうにしておいて、中身はこんなにがらんどうなんだぜ。バカバカしいにもほどがあるよ。なぁ?」


 これらの言葉に意味は無かった。反省している風を装っているけれど、これらは血肉になる前のただの推論、知識として遅着する前の情報に過ぎないのだ。


 僕はどれだけ墜ちれば気が済むのだろう。


 僕はまたしても同じ過ちを繰り返しているのだ。


 それなのに、


「……えへへ、ごめん」


 それなのに、どうして氷月さんは僕を抱きしめるのだろう?


「ごめんね、こうしたくなっちゃった」


「なんで………」


「だって、私も子供だもん」


 氷月さんは僕の耳元に口を添わせて、囁くように喋る。吐息が耳をくすぐる。頬と頬が触れあって、氷月さんの小さな顔をこめかみで感じる。


「失望はしたよ。失望したから……むしろ安心したんだ」


「安心?」


「そう。八重山も私と同じなんだって。やっと同じ目線に立てるって思ったら安心して、むしろ、可愛かった」


 怒っている声ではなかった。失望した声でもなかった。僕にはなんと形容したら良いのか分からないけれど、溶けるように甘い声だった。


「必死で隠してたんだね。八重山も不安だったんだね。自分を抑えられなくて怖かったんだね。分かるよ。私もおんなじだから。ぜんぶ、おんなじだから。八重山のいまの気持ちがよく分かる」


「………………」


「自分の弱い所を汲み取られた気分はどう? 恥ずかしい? 心地良い? 胸がむずむずするよね。私もね、ずっとその気持ちだったんだ」


「……どうしたらいいのか分からない」


 まったく、何を言ったらいいのか分からなかった。なんでこの人は受け入れてくれるのだろう? 自分でも嫌いな僕をどうして可愛いと言えるのだ? この人は頭がおかしいのか?


「私はいっぱい思いつくよ。したいこと。八重山の気持ちってこんなんだったんだね。ズルいや」


 氷月さんは僕の頭を撫でた。「我慢できない」と言って耳をんだりした。小さな獣がいるように感じられた。


「どうしよう。もっとギュッとしたいよ。もっと好きになって、愛おしいよ。好きだよ。可愛い、大人しい八重山がすごく可愛い」


「………僕は、怖い」


「そうだよね。それが私の気持ちだったんだよ。八重山はそれで良いって言ってたんだよ。それを受け入れろって。無理だよね。そんなの」


「うん、無理だ」


「何かしたい?」


「……したい」


 今の僕の気持ちをどう言語化したものか分からないのだけど、一連のセリフから読み取っていただくしかないように思う。とにかく恥ずかしくてもどかしくて、いてもたってもいられなくて、でも包み込まれるような安心感を抱く。訳が分からない。この気持ちはなんなんだろう。


「させないよ」


 氷月さんはニコリと笑って、僕の頬を両手で掴んだ。


「……何をするつもりだ」


「………………」


「……………凛?」


「やっぱやめた。いまやっちゃったら面白くないもん」


「……へ?」


 氷月さんはパッと離れると、カバンの中から宿題を取り出して広げ始めた。


「なんで?」


「今日は勉強しに来たんだよ。さ、やろ? 八重山っ」


「……………」


 なぜだかおあずけをくらった犬のような気分だった。


 誰かに手を取ってもらわないと自分から歩けないような気持ち。


 これが氷月さんが味わっていた気持ちなのだろうか……?

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