第41話


 氷月さんに呼び出されたのはそれから1週間後の事だった。


 宿題をしようと誘われたので僕はすぐさま食いついた。根っからの勉強嫌いである僕が一人で宿題をするわけもなく、終業式以来、学校カバンには手を触れてすらいない。もしかしなくても白紙のままだ。


 そんな僕だから、できる事なら氷月さんの宿題を丸写ししたいなぁなんて思いつつ、呼び出されたバス停まで行く。


 バス停で落ち合って、家までエスコートすることになっていた。


「八重山………」


「やぁ凜、元気そう……には、見えないね」


「やえやまぁ……捨てないでぇ……」


「はぁ……?」


     ☆☆☆


 聞けば、従妹に恐ろしい事を言われて一人で悩みに悩んでいたのだそうだ。


 市街地へ向かう道路とは反対の方向にまっすぐ進み、コンビニが見えたら左に曲がる。細い通路を道なりに進むとやがてくたびれたタバコ屋(空き家)が見える。そのはす向かいにあるのが僕の家だ。


 氷月さんは水色のシャツに半透明の上衣(ベージュ色)を羽織り、パンツはダボッとしたカーゴパンツ。普段の清楚な雰囲気から一転、かっこいいお姉さんという感じだった。しかし身長が僕より少し低いくらいなので、こじんまりとしたかっこいいお姉さんである。服装一つでここまで雰囲気が変わるのかと僕は驚いた。


「その服、似合ってる」


「可愛い?」


「とても可愛い」


「とてもとても可愛くは、ないの?」


「今日の凛が一番可愛いよ」


「………ぽっ」


 面倒くささと可愛さは紙一重であると僕は学んだ。


 氷月さんを部屋に通して飲み物とお菓子を取りに冷蔵庫へ向かう。冷蔵庫特有の食品をごちゃ混ぜにした酸っぱいとも甘いともつかない匂いに耐えながら、冷えていた麦茶を取る。お菓子は……手が汚れないクッキーあたりが良いだろうか。一応はしも持っていく事にする。


「お待たせ。何見てるの?」


「卒業アルバム」


「そこで見たものは記憶から消去する事。いいね?」


 僕は恥ずかしさを堪えながらテーブルにコップなどを並べた。


 不思議と黒歴史をあばかれた気分だ。小学生の頃と今ではずいぶんと顔つきが違うし、昔の自分なんて覚えてもいない。


 氷月さんは悔しそうにアルバムを閉じて「今日の私は世界一可愛いって思ってたけど、小学生の頃の八重山には勝てないわ」と首を振った。


「なにと張り合ってるんだよ。その数年後がこれだぞ?」と僕は自分の顔を指さして言った。


「だから良いんじゃないの。ていうか、小学生の八重山見たら今の顔も可愛く見えてきちゃったじゃないのよ」


「彼氏が可愛く見えたら沼って誰かが言ってた気がするな」


「は? 美人は3日で飽きるくせに?」


「慣用句だろ、ただの」


「ふんっ」


 氷月さんは険しい顔をしてクッキーを貪り始めた。


 氷月さんが美人であることは初めから重視していないというのに………


 ムスッとしたまま今度は麦茶をすすと、しかし、悲しそうに目を伏せた。「沼ってことは、捨てられたらより辛くなる……」


「まだそんなこと言ってる……なんで僕が凜を捨てないといけないんだ?」


「それ! そういうのが余計不安になるんだよ!」


「はい? 僕は思った事をそのまま言ってるだけなんだけど」


「じゃあ今はどう思ってるわけ?」


 僕は机の上をちらっと見て言った。


「宿題やべぇなって」


「まだ7月!」


 今度は犬歯をむき出しにした。


 彼女の言う事は一理あって、恋人が自分の事をどう思っているか知りたいというのは、万人共通の悩みであろう。


 相手の事を想えば想うほど心はかすんでしまうようで、それは湖上の枯れ葉を救うがごとし。心を探ろうとやっきになればなるほど探れなくなるものなのだ。


 僕は思った事をそのまま言っているだけなのに、どうしてそんな疑われ方をしないといけないのかはなは遺憾いかんであるが、しかし、氷月さんの悩みは恋や愛に真剣であるがゆえの悩みなので、僕は軽んじたりしない。


「嘘だって。つまりだ。今の凛に思っている事を率直に話したって、それが君にとって都合の良い事ならもれなく疑われてしまうんだろう。だから、こうすることにするよ」


「どうするって?」


 僕はスマホのインカメを起動して氷月さんに向ける。そこには、頬を膨らませた氷月さんの顔が写る。


「こんな顔を、1か月前の君がするだろうか?」


「………子供っぽくなったって言いたいんだ」


「違う。表情が豊かになったと言っているんだ。大人っぽさなんておしなべて自分との比較でしかない。小学生から見れば中学生が大人に見えるし、高校生から見れば大学生が大人に見える。表情の豊かさと大人っぽさはまた別の話だ」


「………………」


「その神妙な顔はいいね。新しい表情だ」


「ちょっと、私は真剣に―――」


 パシャリ。僕は写真を撮った。


「怒った顔も可愛い。待ち受けにしていいかな?」


「はぁ!? ダメに決まってるでしょ! 恥ずかしい!」


「ごめんもう設定しちゃった」


「ふざけるなーーーーーーー!」


 氷月さんがスマホを奪おうとやっきになるのを避けながら、僕は設定アプリを開いて、壁紙を選択する。氷月さんの悲しんでいるとも不機嫌ともとれる眉をひそめた顔の写真を見つけ、ロック画面と背景の両方に設定する。


 良い顔をしていると思った。たった1か月の間にずいぶんと可愛らしくなったと思う。


 氷の女王なんて呼ばれていたのが嘘のようだ。


 理想の女性と恋をしたいかと言われると、僕は、したくないと答える。理想はいつまでも理想であってほしいというのが僕の持論だ。切れば血が出るような現実に理想を持ち来むのがそもそも夫婦間の不和を招くのだと思うし、綺麗なものの方が少ない現実を共に生きるには、互いを想い合える人を探すべきだと思う。


 そう考えるなら氷月さんはむしろ完璧な人だ。自分と向き合って見つめ直す事ができる。そういう人ほど信頼がおける。


 ………じゃあ、僕は?


 僕は氷月さんのために変わろうとしただろうか?


 氷月さんの求める人になろうとしただろうか?


 僕は、いつでも氷月さんを受け止める立場に甘んじていたのではないのか?


「僕に、凜と付き合う資格があるのだろうか?」


「……なに言い出すの、急に。資格もなにも……八重山だから……」


「それじゃあダメなんだよ!」


 僕は思わず氷月さんの肩を掴んでいた。


「凛は僕のどこを良いと思った? 僕は凛を幸せにしているのか? 凛は日に日に可愛くなっていくのに、僕は変わらずこのまんまじゃないか」


「あ………え、ちか、ちかいよ……八重山………」


「氷月さん!」


「ひゃ、ひゃい!」


「教えてくれ。僕はどうしたら君の隣に立てる? その資格はどうしたら得られる? 僕は、どうしたら彼氏足り得るんだ」


「や、……あえ、………あの」


「あの?」


 目をグルグルさせる氷月さんの肩をしっかりと抱いて、逃げ出さないように力を込める。どうしても聞かなければいけない。僕は自分の立場に甘えていたのだ。


 これが恋であるわけがない。


 僕はただ、氷月さんの好意を搾取していたに過ぎないのだ。


 不名誉な現状を挽回するためにもどうしたって聞かなければならないのである。そんな僕の視線はかなり熱を帯びていた事だろう。


 氷月さんは茹でだこのように顔を真っ赤にして、


「そういう私に都合が良い事ばっかり言うところが不安になるって言ってんの!」


 と言って、立ち上がった。


「いつもいつもいつも本心を隠してばっかりで、嫌な事を一つも言わないで、私を喜ばせるような事ばっかり言って! ちゃんと考えてくれてるのは嬉しいよ。でも、それじゃあ不安になるの! だって、私……ワガママなんだよ……?」


「………………」


「強引だし、自分勝手だし、何にも我慢できないし、八重山のこと疑ってばっかだし、悪口の一つも言わないのは、裏で言ってるからじゃないかって、考えたくなくても、考えちゃうんだよ…………そんな人なんだよ。なんで悪口の一つも出てこないのよ………おかしいよ、そんなの………」


「………………」


 僕は、氷月さんの精一杯の告白に衝撃を受けた。というのもそれは、本当に陰口を言っていたとか、努めて悪く言わないようにしていたとか、そんなことは一切なく、本当にそんなことを思っていないからだった。


 そうして、氷月さんのコンプレックスをすべて見逃していた理由が、やっぱり、僕と氷月さんの態度の違いからくることに気づかされたからだった。


「そうか、普通は悪口を言うもんなのか」


 僕が小さく呟くと、氷月さんは我に返ったらしく「あ、ち、違うの! こんなことを言うためにきたわけじゃ……」と途中まで言って首を振った。「ごめん、もう帰るね」


「待って、凜!」


 僕は慌てて氷月さんの手を取った。


「いや、離して!」


「ダメだ、離さない! 君は大きな勘違いをしている!」


「勘違い? それって―――――」


 クルリと振り向いた氷月さんの顔。


 その唇に、僕は………

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