第40話


 さて、とうとう夏休みになってしまった。


 すべての高校生が狂喜乱舞する学校生活の一大イベント『夏休み』


 体育会系のあの人も文化系のあの子もまったく関係のない帰宅部も、あらゆるイベントが集約されている夏休みに浮かれない人はいない。部活をやっているなら大会やコンクールがあるだろう。世代交代が起こって2年生が最上級生になったり、新体制になったり、それぞれの部活のドラマがあるだろう。部活をやっていなければ夏祭りがある。旅行にだって行ける。1ヶ月まるまる休みである開放感から生活リズムが狂ってしまう人もいるし、2学期には真っ黒に日焼けした生徒だって出てくるだろう。夏の狂気にあてられた生徒が髪型まで開放的にしてしまうのが夏休み。


 この人も解放感からおかしくなってしまったのだろう。


 氷月さんはベッドに寝転がって悶えに悶えていた。


「うやぁぁぁぁぁあああああ! あんなのズルいよ! 無理だってーーーー!」


 抱き枕に顔をうずめて体をLの形に曲げて反復横跳びのごとくベッドを行ったり来たりしていた。


 先日のキスの件である。


「……僕も男になるべきなのだろうが、覚悟を決められなかった。こんな奴でごめんな……」


「口は……うん、夏休み中には、絶対………」


 氷月さんは寝ていなかった。


 キスをねだる最中で正気に戻っていた彼女は、なんと寝たふりをしていたのだ。そこへ僕がほっぺにキスをしてしまったもんだからたまらず起きてグーパンチ。


 とんでもない事をしてしまったらとんでもない事をされた。


 今でも鮮明に思い出せる感触。頬を撫でるたびに、あたかももう一度キスをされたようなドキドキが沸き起こる。


 あの堅物が自分からキスをした!


 それだけで氷月さんは空想を羽ばたかせてあんなことやこんなことを妄想しはじめる。


「いや、だめだよ八重山キスなんてしたら……あ、口はだめぇ……赤ちゃんができちゃうよ!」


「………………」


「ああでも、八重山の子供ならきっと賢いよね。え、何人欲しい? そんなの聞かれると困っちゃうなぁ……えっとぉ、いっぱい?」


「ひづ姉さん…………」


「……………え?」


 ゴロゴロともんどり打っていた氷月さんは、その言葉にぴたりと動きを止め、抱き枕からそっと顔を出した。「えっと……しー……ちゃん?」


「私、ひづ姉さんのそんな姿を見たくありませんでした」


「……あぅ、違うんです。これはすべて思春期が悪いんです」


「思春期のせいにしないで。誰です八重山って」


「…………恋人」


 氷月さんはしゅんとして言った。従妹はその答えに深いため息をついて呆れたように言った。


「あの姉さんがここまで馬鹿になるなんて、やはり恋なんてするものじゃありませんね」


 言い過ぎだと思うけど、氷月さんの変化には僕も同意見だ。しかし恋はした方が良いと僕は思う。今は馬鹿でも未来には碩学せきがくかもしれないのだから。


 氷月さんは自分で恋人だと言っておいて恥ずかしくなったのか顔を真っ赤にして、しかし同時に勇気づけられたように開き直った。


「私だってこんなになるとは思ってなかったよ。でも、坂道にボールを置いたら、そりゃ行くところまで行っちゃうよね?」


「それはつまり自制心のないバカという事ですか?」


「……………」


 返す言葉が無かった。


「その人と付き合うのはもう止めた方がいいんじゃありませんか? これ以上姉さんがおかしくなるのは嫌ですよ」


「………………」


「ひづ姉さんの事を思って言ってるんです。別れてください」


「…………別れる………」


 従妹が眉間にしわを寄せて詰め寄る。


 自分がおかしくなっている自覚が氷月さんにはあった。


 僕の視線が日に日に生暖かくなっていくのを見て察していたのであろう。前はもっと大人っぽかったのになぁ。と僕が思っていることに気づいているのだろう。


 だがしかし断言しておきたいのは、僕はいまの氷月さんを悪く思ってはいないということである。この場にいて伝える事ができないのがもどかしいけれども、前の氷月さんよりもいまの氷月さんの方が好きだ。それが恋愛としての好きかは別の話として好感を抱いているのはいまの氷月さんの方である。


 確かにアプリでやり取りしていた頃は騙されたけれども、あれはいわばごっこ遊びだからこその大人っぽさだったのだと思う。


 逆に言えば氷月さんはポテンシャルを秘めているということでもあるのだ。


 もっと自信を持って欲しいと僕は思うのだけど、この場にいないのだから伝えようがない。氷月さんは従妹の言う事も正しいと思った。


「そうだよね、私、変だよね」


「変です。とても変」


「………………」


「私は、姉さんがどんな人生を送ろうと姉さんの自由だと思っていますけれど、もしその人に捨てられたらどうするんですか?」


「………え………?」


「前の姉さんなら捨てられても平気だったんでしょうけど、いまの姉さんはとても弱く見えます。きっと事あるごとにその人を思い出してしまうんじゃありませんか? その人を求めて似た別人で誤魔化すようになるとか? これ以上依存する前に別れるべきです」


「八重山に……捨てられる…………」


 そんなことない! と断言できないことを氷月さんは苦しく思った。


 だって今の姿は彼(僕のこと)の理想とは程遠いのだから。


 氷月さんからすれば愛想を尽かされていないのが不思議なくらいだったろう。僕がどう思っているか氷月さんには探りようがないのだから、捨てられるわけがないと断言できないのも無理はない。


「……言いたいことはそれだけです。宿題しているのであまり騒がないでください。壁薄いんですから」


「それは、普通にごめん」


 従妹は部屋を出て行った。


 氷月さんはベッドに倒れ込み、枕を指でなぞりながら呟いた。


「星ちゃんったらヤな事しか言わない……でも、八重山は私の事をどう思っているんだろう………」


 不安ばかりが募っていった。

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