第39話


 小日向と別れて昇降口へ行く。この時間に下校しようとする生徒はおらず、僕が校門を出ると、その陰から氷月さんが現れた。人がいない分距離も近い。ほとんど肩に寄り添うくらいだった。


「遅かった。何してたの」


「……小日向と話してた」


「小日向さんと?」


 氷月さんは僕の手を取りながら言った。


 待ちわびたようにギュッと握られるとさすがにドキッとする。


「そう。来栖と凜に謝っとけよって話」


「ふぅん……なんで?」


「来栖の調子をおかしくした犯人だから」


「そっか。………小日向さんはなんて?」


「謝るって約束してくれたよ」


「へぇ………」


「まぁ、ほとんど後始末のようなものだけどな」


「………………」


「来栖と仲直りしたんだろう?」


「………うん」


「じゃ、僕のやったことはあまり意味は無かったな。2人で解決できるならそれが一番良いんだ」


「そんなこと、ないよ?」


「…………」


「……八重山の気遣いは……いつも、すごいから………」


 なんだか氷月さんの返事が間延びしている気がする。いつもよりも覇気がないというか、言葉の切れ目に女子特有の甘さが濃く出ているというか。顔色もいつもより白いし、どう見ても疲れているではないか。


「凛。さては眠たいか?」


「そんなこと、ないよ?」


「めっちゃくちゃ目が閉じてますけど?」


「………木実とカラオケ行った。徹夜……」


「どうりで……」


 氷月さんはよほど疲れているのか僕に寄りかかってしどけない姿をさらしている。いつもの美しい姿勢も凛とした所作も見る影がない。しかし僕はそれを注意しようとは思わない。今はただ疲れているだけかもしれないが、これが年齢を重ねると妖艶なフェロモンを醸し出すようになるのだから我慢だ。今後の成長に期待しよう。


「こんな時間だし、しばらくバスは来ないだろう。ちょっと休もう」


「やだ………久しぶりに2人きりになったのに………お話する……」


「昨日も2人きりではあったと思うけど……まぁ、そうか。ゆっくり話せる時間なんて、付き合ってからもなかったもんね」


「そうだよぉ……もっと彼女っぽい事がしたいー!」


「例えば?」


「キス」


「おう、即答か………」


 手を繋ぐとか、ハグとか、キスとか、そういった行為が特別であるのは子供の間だけである。大人になればそれらは愛を確かめる行為となり、して当たり前の行為となる。こうしてわざわざお願いするようなものではない。これをおねだりしているうちは自分が子供だと証明しているようなものだ。その初々しさが良いという人もいるが、僕はそうは思わない。大人の余裕を見せる人こそ美しいのである。


 僕達は待合所のベンチに座ってバスを待った。


 氷月さんは僕をジッと見つめて「キス、キス」とうわごとのように繰り返す。どう見ても眠そうなのに、こうして繰り返されると興奮して抑えが効かなくなったように見えてくるから不思議だ。ここがベッドの上なら押し倒される事もやぶさかではないが、しかし、氷月さんにされるのはなんだか屈辱を覚える。


 僕は、しかし、「いいよ」と答えて氷月さんの後頭部に手を回してみた。


 いつもの彼女であれば、これだけで舞い上がってしまって「無理無理無理無理! 八重山の変態!」とか言い出してうやむやになるだろうと思ったのだ。


 しかし、眠気は人から理性を奪い取るもの。氷月さんはむしろ身を乗り出して、唇を桜の花のようにすぼめて迫って来るではないか。僕の胸の上に乗っかって、目を閉じてキスをねだる様は子供でも大人でもない、小さな獣だった。僕はベンチに座ったままお尻を動かして逃げようとするが、それは氷月さんの重さがよりのしかかってくるだけに終わった。


「キス、キス……きす………」


「う………いいよとは言ったけど……」


 氷月さんはずいずいと距離を詰めてくる。もう、何かちょっとした力が働けば触れてしまいそうな距離に唇がムズムズする。


 いい匂いがする。


 ……するのか。本当にするのか?


「…………………」


 氷月さんはもう『待ち』に入った。詰め寄ることを止め、僕からの接触を待っている。これはつまり僕が崖際に追い詰められてしまった事を意味する。いや、壁際と言った方が正しいだろうか。崖際だと、身を切る覚悟で飛び降りる――つまり逃げる事ができるけれど、僕にその選択肢はない。僕は氷月さんの唇を受け止めるほか無いのである。


 ……するのか?


 僕は氷月さんの唇を奪うのか。本当に?


 そんな大人の階段を登ってしまうのか?


 僕が?


「………………」


 考えれば考えるほど一歩が踏み出せなくなる。それはもうFPSゲームのエリア収縮のようなもので、時が経つほど抜け出しがたくなるものなのだ。


「……よし、分かった。しよう」


 いつまで経っても踏ん切りなどつくわけがない。僕は女性経験が無いのだから、当然キスをしたこともない。一度経験してしまえば壁も感じなくなるのだろうけれど、未経験者にとっては容易に越えがたい一線がそこにはあるのだ。それならいっそ清水の舞台から飛び降りるつもりで唇を奪ってしまうほかないのである。


 えいやっと飛び越えてしまうほかない。氷月さんに素敵なお姉さんへと成長してもらうためには僕が覚悟を決めるほかないのだ。


「凛、いい?」


 僕は氷月さんの頬に両手を添えて最後の確認をする。いきなり奪うのは乱暴だし、礼儀に反すると思った。


「いいよね?」


「………………」


「……凛」


「……………すやぁ」


「………うん?」


 眠ってしまった。


 疲れと眠気が限界に来てしまったのだ。安らかな顔ですぅすぅと小さな寝息を立てて眠ってしまった。


「………ふぅ、びっくりした」


 僕は天井を仰いでホッと息をはいた。


 頭の中が心臓になったみたいにドキドキしていた。


 僕はまだまだ子供である。そもそも氷月さんに女性を求めている時点で分かり切ったことではあるが、僕はどちらかというとリードして欲しいタイプなのだ。たぶん、押しに弱いのだと思う。


 氷月さんと付き合う事になった経緯だって彼女の気迫に押し負けたからだし。


 このままでは氷月さんにも失礼だと思う。


「……僕も男になるべきなのだろうが、覚悟を決められなかった。こんな奴でごめんな……」


 さらさらした髪を撫でる。


 川のせせらぎに手触りがあったら、こんな感じなのだろうか。柔らかくてしっとりしていて、乾いている。なんと新鮮な手触りなのだろうか。


 氷月さんの小さな胸が一定のリズムで上下する。その安らかな寝顔。すぼめた唇から吐き出される吐息を感じていると、ふいにまた、僕の唇がむずむずしだした。


 困った。今度は僕の方がキスをしたくなってしまった。


 さっきやれよ! と怒られてもいたしかたない事であるが、しかし、さっきの余韻がむしろ僕の背中を押した。


「ほっぺなら……いいか」


 唇を奪うのは、初めては互いに意識があるときでないと失礼だ。


 僕は唇で頬に触れた。繊細できめ細かい肌を口の先で感じる。唇のシワを撫でる絹のような柔らかさにドキドキした。


 少しだけの軽いキスを済ませる。たったそれだけで、僕の心臓は全力疾走した後みたいに早鐘を打った。


「口は……うん、夏休み中には、絶対………」


 2人の仲を深めない事には氷月さんの成長も無いのだから、素敵なお姉さんと恋がしたい僕にとって、氷月さんの成長は僕の願いを成就する事にも繋がる。


 そうだ。夏休みになれば2人きりの時間が増えるだろう。夏祭り、海、宿題を一緒にするでもいい。そういう雰囲気を作り出せれば、もう一度キスをするチャンスだって作れるだろう。


「ごめんね、凜」


 僕はもう一度謝って、髪を撫でた。


 寝てる間にキスを済ませるなんて、後でバレたら絶対に怒られるだろう。隠し通さなければな。そう反省していると、しかし、なにやら頬が赤いように見える。


 あれ、と思って顔を見ると「あ……え、やえ、やえやま………いまの」と恥ずかしさのあまり両目を見開いた氷月さんの顔があった。


 自分からキスをねだった事は覚えていないようだった。


「……あ」


「……あ、む、無理無理無理無理! 八重山の変態!」


 反応は予想通りだったけれど、グーパンチのおまけつきだった。


 痛かった。


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