第36話


 氷月さんはわんわんと泣きながらぽとぽとと僕の胸を叩いた。


 氷月さんとてこんな恋がしたくはなかったはずだ。恋を選んで友達を捨てるなんてことをしたくないのは彼女も同じだと思う。


 とすると、僕は今度は氷月さんを回復させる必要があるようだ。


 来栖のときよりも大変になるであろうことは容易に想像できる。立場ゆえの負い目がある分、説得は困難になるだろう。


「やだよ……こんなのやだ。このまま辛い思いをするしかないなんてやだよぉ……助けてよ、八重山……」


「………………」


「八重山、あなたなら何かいい考えがあるでしょ? いつもみたいに、こら、って叱ってさ、ちょっと怒った後でこうしたらいいって教えてくれるんでしょ? ねえ、ねえ!」


「……難しい事をいうねぇ。僕は魔法使いじゃあないんだが?」


「……八重山はいろんなことを知ってる。いろんなことを考えてる。もうあなたしか頼れる人がいないの……」


「………………」


 氷月さんに頼られる事は嬉しい。でも、今度ばかりは快刀かいとう乱麻らんまの解決は期待しないで欲しい。僕にできる事は氷月さんを慰めることくらいしかないのだから。


「……ねぇ、凜は、僕と付き合い始めてから、とても大人になったと思う」


「……え?」


「可愛いって言われるのに疲れたとか、男も女も下心があるからとか言って人付き合いを避けてた頃と比べたら、友達の事で悩んでいる君はかなり成長したと思う。それでいいじゃないか。人は傷ついて成長するもの。今回の事で、凜はまた新しい事を知る事ができたんだろう? それで、いいじゃないか……」


 僕が諦めていることに気づいたのだろう。


 氷月さんは心底軽蔑したというような表情で僕を見上げた。


「……なにそれ」


「凛はまた一つ大人になったんだよ。その苦しみも、悲しみも、全部、凜が成長した証拠だ。僕はそれを嬉しく思うよ」


「……なにそれ、なにそれなにそれなにそれ、そんなの……そんなのまるで、傷を抱えたまま見ないフリするしかないって言ってるみたいじゃない。この傷を消す事は出来ないの? また前みたいに笑い合う事は出来ないの?」


「できない。起こった事は変えられない。来栖が呑み込んだ傷はもう消えないんだ」


「はぁ!? 私はそんな事を頼んだわけじゃない。前みたいに仲良くできるようにしてってお願いしたよね。そうじゃなければハッピーエンドなんかにはならない!」


「この世界のすべてが上手く回るようにはできていない! 僕達にできる事は、何もないんだ」


「信じらんない……八重山ならどうにかしてくれるって信じてたのに……」


 それは僕だって同感である。僕だってどうにかできるならどうにかしたい。氷月さんと凜が気兼ねなく笑い合える関係に戻してあげたいと思う。でも、無理なんだ。


 無理なものはどうあがいたって無理。覆水は盆に返らない。


 これが僕達の選択の結果なのだ。


 氷月さんは俯いて、額を僕の胸に押し付けた。そうして絞り出すような声で「じゃあ別れればいい?」と言った。


 別れれば代わりに来栖の恋が成就すると言いたいのだろう。別れた哀しみは自分が呑み込むから来栖が幸せになれば気負わずに済むと言うのか。


「……………」


「私たちが別れたら、木実は八重山と付き合えるよね。そうしたらまた3人でお話しできるよね。遊びに行ったりできるよね。そうだよ、私たちが別れれば――」


「凛!」


 僕はたまらず声を荒げた。


「それが一番ひどい事だって、君にも分かっているだろう? 別れるのはダメだ。僕達の不和が招いた結果破局するならしょうがないけれども、来栖のために別れるのだけはダメだ。誰も喜ばない」


「じゃあどうしたらいいのよ! どうしたら私たちは!」


 そう叫んだ氷月さんの瞳は濡れていた。キラキラ輝くお星さまみたいな涙が目の端に貯まり、頬を伝い、こぼれた。


 いったい、友達のためにここまで苦しむことができる人がいるだろうか?


 この涙こそが氷月さんの本当の美しさなのだ。


 その純粋な輝きが僕たちを結びつけて、その輝きがゆえに苦しむことになった。胸を打たれた僕は思わず言葉を詰まらせた。


「だってもう、これしかできる事が無いんだよ……」


「………………」


 氷月さんの悩みの深さは分かった。来栖との友情がどれだけ大切かも分かった。しかし、氷月さんの成長なくしては解決しない問題なのだ。どうしたって傷を飲み込みたくないと言うのならば、もう、別れるしかないのか……?


 僕は思わず諦めかけた。


 せめて最後の説得をと、僕は氷月さんの背中に手を回して優しく抱きしめる。


「なに……するの?」


「凛……これが僕たちの選んだ結果なんだ。いま、凛は幸せか?」


「幸せなわけがないでしょ……」


「そう? こうしていると安心したり、心が暖かくなったりしない?」


「……………」


「自分を責めていい結果になることなんて一つもない。僕は忖度が嫌いだからはっきり言うけれど、たとえ付き合っていても凛が昔のままだったら来栖を選ぶつもりだったぞ」


「……え」


「でもこうして僕たちは付き合っている。それは凛が頑張った結果で、その一生懸命な姿を知っている僕が君を選ばない訳がないんだ」


「でもそれは……木実から八重山を奪ったことにも……」


「ならない。これは僕が選んだ結果でもある。僕がそうさせない」


「だめ……だめだよ。こんな、幸せなんて思ったらだめなのに、木実に合わせる顔がないのに……どうして、嬉しいの……」


 氷月さんはそう言いながらも、おずおずと僕の背中に手を回してそっと抱きしめた。


 それは2人が付き合った結果を受け入れたというよりも、自分の感情を受け入れられない苦しみが凛の理性をすり抜けて安心を求めた結果のように思う。


「嬉しいって思ってる、ずっとこうしてたいって思ってる……心が暖かい……でも、その先を思うと、胸が苦しいよ……」


「いまは、その暖かいところだけを感じていて。時がくれば、またいつも通りに笑えるから」


「……私にできるのかなぁ………」


「できるさ。それが、大人になるということなのだから」


「……………」


 氷月さんは何も答えなかった。ただ、いまはゆっくり休んでほしいと、僕は思う。

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