第35話


 もちろん氷月さんに悪意があって発した言葉ではなかった。


 氷月さんは氷月さんなりに苦しんで、考えて、今の関係を壊さないように悩んで悩んで、その結果、僕と来栖だけが先にしがらみから抜け出したのだから、一人だけ取り残されてしまったのだろうと思われる。


 三角関係のしがらみに、友情と恋の選択という分かれ道に、その抜け殻に、たった独り取り残されているのだろうと僕は考える。


 氷月さんとて僕と同じ年数を生きているだけの女の子なのだから、同じ人を好きになって選ばれた苦しみを上手く処理できないのは仕方のない事だろうと思う。


 しかしそれはそれとして、氷月さんの発言は看過できない。


「来栖があっさり克服したなんて言ったら、それは友達失格だぞ。目の下が大きく腫れてただろ。あれはきっと帰ってからも泣きはらしたんだ。それでも彼女の方から話しかけてきたんだ。一人の夜を苦しみのうちに過ごしたからこそあそこまで開き直れたんだ。その苦しみは理解するべきだと思うし、僕達も相応の傷を飲み込まねばならない。そのうえで態度に出してもいけない。来栖だけじゃなくて、僕達も強くなければいけないんだよ」


「…………………」


 氷月さんは怒られると思っていなかったのだろう。


 僕も自分が怒るとは思っていなかっただけに驚いたが、しかし、自分で言っておいて、僕達が強くないといけないというのは、正しいように思えた。


 この大きな傷は一生癒えない傷になり、かさぶたとなる事はあっても完治する事は無いのである。


 僕達にできる事はせめて、その傷に塩を塗らないようにすることだけ。そのための強さは来栖だけではなく僕達にも求められるのである。


「氷月さんの気まずさは分かる。でも、それでも、僕達は平気な顔をしていないとダメだ。来栖といつも通りの関係を続けたいのなら、そうするしか方法はない」


「本当に……?」


「本当だ」


「…………………」


 氷月さんは納得がいかないような顔をしていたけれど、しかし、これはもう渦中ではないのだから考えても仕方がないように思うのだ。薄情なように聞こえるかもしれないけれど、僕達は結果を受け入れるターンに入っているのである。


 起こったことは起こったこととして受け入れるほか無いのである。


 傷は傷として、受け入れるしかないのである。


「なによ……それ。このままじゃあ私、八重山とキスできないわ」


「……………」


「こんな気持ちじゃあダメなの。ねぇ、木実に謝る事はできないの? そうじゃないと私が辛いまま……」


「謝ってどうするんだい。私の恋が実ってしまってごめんなさい。なんて、そんなことを言えるか?」


「そんなことは言ってない! ただ、ただ………」


「ただ?」


 僕が問い返すと氷月さんは静かに目を伏せた。その目の不安げな揺らぎを見るに彼女も彼女なりに思うところがあって、彼女もまた苦しんでいるのだろう。その小さな頭に手を軽く乗せると唇を震わせて、「こんなの、違うよ」と呟いた。


「違わない。これはどうしようもないことなんだ」


「聞き分けの悪い子供だって言いたいわけ」


「それも違う。こういうことを繰り返して人は成長する。初めての事だから、きっと受け入れがたいとは思うけど」


「………………違う、違う、こんなのやだ……」


 氷月さんはただいつも通りの日常を望んでいるだけなのだ。気兼ねなく笑い、遠慮なく軽口を叩ける。それだけ。たったそれだけの日常を。だけどそれはもう、僕達の関係がハッキリ定まってしまった今、取り返すことはできないのである。


 僕と凜が仲良くする姿はどうしたって来栖に辛い事を思い起こさせるし、僕と来栖が仲良くする姿を凛は素直に受け入れられないだろう。凛と来栖が仲良くするには……氷月さんが傷を飲み込む必要がある。これを乗り越えるには、どうしたって僕達が大人になるしかないのである。


 成長するという事は傷つくという事でもあると僕は考える。いろんなことを経験して、傷ついて、かさぶたを作って、いろんな出来事に対する耐性を培う事で人の深みが増すと思うのだ。


 もう何も考えずに笑い合っていた頃には戻れない。


 僕は努めて優しい声音で「誰も君を責めたりしないよ」と言った。


「え…………?」


「来栖がなんであんなに明るいと思う? きっと、凜との友情を壊したくないからなんだ。来栖も凛と同じように苦しんでいて、来栖はもう答えを出したんだと思う。僕も、もう答えを決めた。だから凜も、時間をかけても良いから、凜の答えを決めてくれ」


「……………………」


 しかし僕はどうやら言葉選びを間違えてしまったらしい。氷月さんはダムが決壊したように泣き出して、その涙を必死にこらえながら「来て」と僕の腕を引っ張って走り出した。


 泣いているところを人に見せたくないのか、口酸っぱく関係がバレたらまずいと言っているのを気にしたのか。


 氷月さんは階段を駆け下り、人気ひとけのない校舎裏へ行くと、僕の胸に抱き着いてわんわん泣き始めた。


 それは、幼い子供の癇癪かんしゃくのようであり、大人になろうとしている女の子の苦しみであったように、僕は思う。


「やだやだやだ……こんなのやだ! だって、こんなの、木実から八重山を奪ったみたいじゃないの! 友達の好きな人と付き合ってることを隠しつづけて、友達の好きな人を知っていて、言わずに、どうしようもなくなってからばらして……そんなのズルいじゃん! なんでそれを謝る事も出来ないの! 私みたいな奴にも優しくしてくれてありがとうって言えないの……? 木実に辛い思いをさせるから? じゃあ、私が辛い思いをしてなかったっていうの!?」


「……………」

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