第24話


 氷月さんと付き合うようになってから、一番彼氏彼女している時間というのが放課後から夜にかけてであった。


 僕らの関係を良好に保つための大前提としてバレない事が肝要である。教室で堂々と言葉を交わす事はできるだけ避けたい僕達にとって人目がまばらになる放課後はもっとも気が休まる時間だ。


 その日は僕が日直当番だった。授業の号令と日誌の作成ぐらいしか業務は無いけれど、日直というだけでなんだか気分が重くなる。


 放課後、僕が日誌を書いていると氷月さんがちょっかいをかけてきた。


「八重山ー何やってんのー?」


「日誌を書いてるんだよ。面倒事は早く終わらせたくてね」


「じゃあ私も宿題やっちゃおっ」


 付き合い始めてから1週間が経とうとしていた。氷月さんは少しずつ自制心が芽生えてきたのか教室で僕と来栖が話していても平気なふりができるようになってきていた。それは嬉しい事である反面、2人っきりになったときの反動が強くでるようにもなってきている。


「やっと、2人っきりになれたね」と、隣の席に座って頬を赤らめる氷月さんのなんと分かりやすいことか。


「教室でやるとバレるからやめて」


 僕は席を立つと荷物をまとめて教室を出る。この時間人が少ない場所といえば、図書室であろう。図書室ならば声を出して話す事もできないし、一石二鳥だ。氷月さんはパタパタと荷物をまとめて追いかけてきた。


「だってぇ、昼はほとんど話せないし、話せても我慢しなきゃだし……八重山とのお話に集中したいじゃんか」


「けっこう普通に話しているように見えるけど?」


「こう見えていっぱい我慢してますーー」


「例えば?」


「う………」


 言葉を詰まらせて、氷月さんはうつむきがちにごにょごにょと早口に呟いた。「それは……手を繋いだりハグしたり………き、キスをしたり……とか? そ、そんなの恥ずかしくて言えるわけないじゃない!」


「なんか言った?」


「うるさいこの鈍感男!」


「痛いな! なんで背中を叩くんだよ……」


 そうこうしているうちに図書室へとつく。幸いにも図書室を利用している生徒はいなかった。僕達は適当な机に陣取るとそれぞれの荷物を広げて静かに作業を始める。


「うぅぅぅ、やっと2人きりになれたのに……これじゃあ我慢するしかないじゃないの」


「うるさいぞー。もう少しで終わるんだから我慢して」


「我慢我慢我慢、我慢ばっかり押し付けて! なんなのよ! いつになったら私は甘えていいの!?」


「これが終わったらね」


 僕は日誌に今日の時間割と授業の内容を書きつけながら、氷月さんの言葉にあまり注意を払っていなかった。氷月さんは頬を膨らませながらも猛スピードでノートを埋め尽くしていく。悶々とした気持ちを全て宿題にぶつけているのだろう。あとが怖い………


 そうするうちに日誌はほとんど埋まった。あとは所感を書けば終わり。それも8割くらい埋まっている。氷月さんは我慢させた分だけワガママになる習性があることは知っての通りなので、できるだけ我慢をさせてはならない。しかし、我慢をさせなければワガママ放題の甘え放題なので我慢してもらわなければいけない。


 氷月さんが「喉が渇いた」と言い出したのはそんな時だった。


「八重山ー、甘いものが飲みたいよぅ」


「もう少しで終わるんだけど。あと5分くらい待ってくれれば―――」


「我慢できない、今すぐ飲みたい!」


 これに関しては僕の推察になるのだけれど、おそらく氷月さんは我慢をさせればさせるだけ、我慢の上限が下がっていく人なのだと思う。あるいは恋に限った話なのかもしれないけれど、年上の女性だって素顔はワガママなはず。女性のワガママを寛大な心で受け止めてこそ理想の彼氏だ。飲み物くらいならすぐに叶える事ができるし断る理由もない。


「じゃあ、買いに行こう」と提案すると、しかし、意外な事に氷月さんはふるふると首を振った。「私ももう少しで終わるから、集中したいの」


「そういうことなら。いいよ、すぐに買ってくる」


「ありがとっ。あ、私、炭酸ダメなの!」


「いつかのデートでメロンクリームソーダを飲んでなかった?」


「あれは、うん、辛かった………」


 本当に辛そうだった。我慢してまで証拠写真が欲しかったらしい。そこまでの我慢強さがありながらどうしてワガママを言いたい放題なのか、疑問だ。


     ☆☆☆


 しかし、ジュースを買って戻ると氷月さんの目的が飲み物ではなかった事がすぐに判明した。


 一ノ瀬高校の自販機は紙コップで出てくるタイプ。僕が2つのコップを持って机に戻ると、消しゴムがどこかへ行って見えなくなっていた。「氷月さん、僕の消しゴムを知らないか?」


 すると氷月さんは変に上擦った声で「え、うーん、知らないなぁ。も、もしかしたら、私に甘えさせてくれると、出てくるかもよ?」と、チラチラ僕を見ながら言った。


「はい?」


「だから、私をドキッとさせてくれたら、もしかしたら、出てくるかも……ね」


 何だろう。イタズラ下手な子供の精一杯の隠し事を見ている気分だ。氷月さんが消しゴムを隠しているのは火を見るよりも明らか。というか、左手が不自然に体の後ろに隠れている。図書室に避難した僕に対する抵抗であろう。


「何を言っているのかサッパリ分からないけれど、仕方がないなぁ」


「え、嘘! 本当!? やったぁ!」


 氷月さんの目がキラキラと輝く。僕は仕方がないとため息をついて、


 筆箱の中から新品の消しゴムを取り出した。


「はっ?」


「これはまだ未開封だから使いたくなかったんだけど………あー!」


「ふん! これで2回! 2回私を甘やかさないと消しゴムは返ってきません!」


「おい待て! 横暴だ!」


「知らない! 八重山のバカ! 期待させやがって!」


 フンと腕を組んで氷月さんはそっぽを向く。


 困った。これでは日誌が書けない。……いや、別に消しゴムが無くても文字は書けるけれど、もし書こうとしたら今度はシャーペンを奪われてしまうかもしれない。


 彼女を我慢させすぎるとこうなってしまうらしい。今後の反省材料にしようと僕は諦めて氷月さんの頭にポンと手を置いた。


「ふぇ……」


 女性の頭を撫でる行為は髪型が崩れるために嫌煙されるとどこかで聞いた事がある。ゆえに僕は気遣いの出来る男の矜持として、氷月さんの髪型は崩さずに、かつ、彼女をドキッとさせるために、軽く添えるだけにとどめる。これがいつでも正しいという事は決してないが、今回は正解だったようである。


「あうぅ……こ、こんなので喜んだりしないんだから……」


「そうか? 言葉に力が無いようだけれど?」


「ううぅ……」


 氷月さんは黙り込んでしまった。消しゴムを返してくれる様子もない。しかし、これからどうすればいいのだ? 神崎ならばありとあらゆる手練手管で女性を落としにかかるのだろうけれど、僕のごとき女性経験の無い男子にはこれが限界だ。これからどうやって氷月さんをドキッとさせよう?


「…………………」


「…………ふみゅぅ……」


 しかし氷月さんはなんだか幸せそうである。火のついたように真っ赤だった顔は自然な赤に戻り、リラックスした様子で目を閉じている。


 その顔を見ているとなんだか申し訳なくなってくる。


 僕にもう少し度胸があれば、あるいは学校で堂々と付き合う事もできただろう。


「凛、ごめんね。君はもっとこういう事をしたいんだろう。でも、僕が臆病なせいで、関係を隠すしか無くなってしまって……ごめん」


 そうだ。無理に隠す必要も無いのだ。氷月さんに我慢させる事ばかり考えていたけれど、僕が勇気を出せばいいのではないか? 誰かに何を言われたって気にしない胆力があれば隠す必要なんて無いはずだ。


 僕にも責任の一端が無いと言い切れないはずだ。


 けれど氷月さんは小さく首を振ると「ううん、私も、隠してって言われないと気を付ける事ができないから。こんな事をみんなの前でやったら八重山に迷惑かけちゃうよ」と呟く。


「それに、八重山の好きな女性って、節度がある人だと思うから。私は、まだまだ子供だよ」


「凛……」


「ていうか人前でイチャイチャするのマナー違反だよ。どうせこういうことは2人きりの時にしかできないんだから、気にしないで」


 人前でできないのはごもっとも。しかし、僕の器量次第では改善の余地がある気がする。


「凛にしかられるとは思わなかった。なんだかお姉さんみたいだ」


「えへへ、好きになれそう?」


 僕が「うん」と答えると、一瞬の静寂ののちに氷月さんは顔を真っ赤にして固まった。


 こういう所はまだまだ子供だなと、僕は思うのだった。

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