第22話
「凛、おはよう」
「う、おはよう……」
「凛〜〜おはよ〜〜〜」
「お、おは、よう……」
氷月さんのことを名前で呼ぶと決めた日から、僕と来栖は積極的に名前で呼ぶことにした。それはクラス全体にすぐに知れ渡ることになり、僕らを真似して氷月さんにすり寄ろうとした男子の屍が山と積まれたという。
来栖は面倒見が良く親しい友人も多い。クラスへの影響力は多大なものがある。彼女が公然と氷月さんに話しかけることで、「あれ、意外と怖い人じゃないのかな?」という風潮が広がり、氷月さんに温かい笑顔を向ける人も増えた。それはあたかも小動物を愛でるがごとき笑顔であった。
しかしそれで氷月さんに人だかりができることはない。むしろ、来栖と僕を怖いもの知らずだと呼ぶ人さえでてきたくらいには、氷月さんは怖がられているのである。
なにより、氷月さん自身が名前を呼ばれることに拒絶的であった。
「あんたたち面白がってるでしょ!」
1時限目が視聴覚室でのパソコンの実習であった。エクセルの書式を学ぼうという授業である。3人用の長机にパソコンが1人1つ。席は自由であるため僕と来栖は氷月さんを囲む形で座る、というより、カンカンに怒った氷月さんが僕らを拉致したのであった。
視聴覚室の最後列に陣取って顔を真っ赤にした氷月さんがピシャリと言い放つ。
「人の名前を気軽に呼ばないでよ! 恥ずかしいじゃないの!」
「そうは言っても付き合いが深まれば名前で呼ぶことだってあるだろう」
「そうだよ。いずれ凛にも彼氏ができるわけだしさ。今のうちから名前呼びに慣れておいた方がいいよ? けんジィの言うとおり深い仲になっても苗字呼びなんて不自然だ」
「ぐぅ……」
早めに移動を済ませたおかげで授業が始まるまでは少し時間がある。授業前の賑わいに僕が加わることになるとは思わなんだ。
氷月さんは悔しそうに奥歯を噛んだが、やがて来栖に発言に矛盾を発見したらしい。「じゃああなたたちはどうなのよ!」と僕が来栖を苗字で呼ぶことを指摘した。
「これは、やむに止まれに事情があってだな」
「うるさい! あなたたちだって恥ずかしいんでしょ! 自分たちができないことを人に強要するのをやめなさい!」
氷月さんは反撃のチャンスと見るや一気
「木実」
「け〜んとっ」
「…………」沈黙したのは氷月さんだ。
「僕が来栖を苗字で呼んでいるのは、分かりづらいからなんだ」
「そうそう。けんジィの従姉妹に
「まあ、気分で変えてるだけなんだけどな。名前で呼ぶと2人が一斉に振り返るから、それじゃわかりづらいってんで苗字呼びなわけ」
小学生時代からの習慣である。好の方は僕と同じ苗字なので名前呼びだ。
あの時は大変だった。呼び分けがしっかりできていなかった時分は、「このみ」と呼ぶだけで女の子が2人振り返り、私のこと? と2人して詰め寄ってくるのである。あれは恐怖すら覚えた。
氷月さんは猫のようにそっぽを向くと「じゃあ呼ぼうと思えばいつでも呼べるわけだ。へ〜、あなたたちはもう深い仲ってわけね」と突っぱねるように言った。
こんな氷月さんを見るのは久しぶりだ。なぜ機嫌を悪くするのだろう?
「凛、どうした?」
「うるさい! 名前で呼ぶな!」
「ええっ!? じゃあ、氷月さん?」
「苗字はもっとだめ〜〜!」
「はぁ!?」
女の子とはなんと繊細な生き物なのだ。私のことも名前で呼べよと言わんばかりに拗ねているのは明らかであるのに、名前で呼んだら怒られる。苗字で呼んだら距離を感じるから嫌なのだろうと推測できる。
僕に要求されるのは、氷月さんの恋心を満たしつつ、かつ、来栖に関係がバレないギリギリの甘やかしであろう。
難しすぎる。ていうかもう来栖にはバレたんじゃないのか? なんか、女の勘とかで見破られたんじゃないのか? 僕はおっかなびっくり来栖を振り返った。
「猫みたい。可愛い。凛かわいい……」
よかった、バレてはいないみたいだ。
「木実までそんな目でわたしを見る……」
氷月さんは裏切られたようにしょんぼりした。来栖ではないが、たしかに氷月さんの態度は柔らかくなったように見える。僕に表情を見る余裕ができたということなのだろうか。ツンツンしてはいるけれど以前のような角は感じられない。いじらしいというか愛らしいというか、庇護欲をかき立てる表情であった。
顔を真っ赤にして俯く恥じらい。感情に左右される不安げな瞳。これを可愛いと思うのは仕方のないことであろう。
とはいえ僕は自他ともに認める年上好きである。今の表情を戦略的に繰り出せるようになってはじめて僕はときめくのであって、その余裕を打ち崩したときの本気で焦っている表情にこそカタルシスを覚えるのである。
試しに、「確かにいまの凛は可愛いよ」と言ってみた。しかし、
「ふぇ!?」と、感情のままに驚き恥じらう表情を見ると、やはり子供である。
「お人形からぬいぐるみみたいにはなったな」
「ほとんど変わってないじゃん!」
「そうか? 大進歩だと思うが」
僕は珍しくフォローをしたが、氷月さんは完全に拗ねたようである。「もう知らない!」とパソコンを立ち上げて画面と睨めっこし始め、緩みそうな頬を仏頂面でかき消した。
「けんジィ、ナイス」
来栖が親指を立てる。
氷月さんなら素敵なお姉さんになれるかもしれない。しかし、恋に恋しているうちはまだまだだと、僕は思うのである。
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