第12話
「ねえねえねえどういうこと? なんで来栖さんにはあんなに優しいの? 私には
「おい待てみなまで言うな、言っちゃいけない事を全部言うな!」
「だって納得がいかないんだもん!」
ホームルームが終わるや否や氷月さんに呼び出された。階段の防火扉の裏に連れ出された僕は地団太を踏む氷月さんと相対している。
特にやり取りがあったわけではない。しかし、無言の圧力があった。
「彼女は私の方だよね?」と言われると、僕には返す言葉が無い。
僕はたじたじだった。
「たしかに氷月さんとは付き合っているけれど、来栖とは長年の付き合いがある。いままでと違う事をすればすぐに勘づかれるだろう。きっとそういうのはささいなやり取りからバレると僕は思う」
「ふん、私よりも来栖さんの方が大切ってわけね」
「そういう問題じゃあないんだ!」
氷月さんは納得がいかないように腕を組んで右足でトントンと床を叩いていた。
とても簡単に許してくれる雰囲気ではない。
僕はどう弁解したものか困惑していたが、しかし同時に、氷月さんも困惑している事もよく分かった。
いままでなんとも思っていなかった事なのに。2人の仲が良いのは知っているのに。2人のやり取りはあれが普通なのに、どうしてこんなにイラつくのだろう。
僕らのやり取りに覚えたフラストレーションと、いつも通りでいられない自分への驚き、それらを遠くから見つめている冷静な自分とが、同時に氷月さんの中に生まれて、胸中をかき乱しているように、それらを処理しきれていないように、僕には見えるのだ。
そうして口をついてでる言葉は、どれも氷月さんの胸中とは
「だいたいさぁ、私の事を大切にしろなんて一言も言ってないし? 八重山がそうしたいなら来栖さんと仲良くすればいいじゃない。いままでロクに言葉を交わしたことも無ければ仲が良かったこともない。ええ、ええ、分かってますよ。急に仲良くしたら不自然だよね。この前喧嘩したばかりだもんね。分かってますよそれくらい!」
「氷月さん、声が大きいって!」
「その呼び方! 来栖さんは呼び捨てで私はさん付けなわけ? 私のことも呼び捨てにしなさいよ!」
もはや大型犬だ。力加減が分からない大型の犬が飼い主にじゃれつくように精一杯、感情いっぱいに訴えかけてくる。
僕はリードを必死に掴んで振り回されないようにふんばる飼い主の方だ。
「ほら、呼んでみなさいよ! 呼べないの? なんで? いやいや付き合ってるなら別れたっていいわよ? 私は八重山がいなくても平気だから!」
「ちょっとちょっと! 言っちゃまずい事を立て続けに!」
「ふん! どうせ私は面倒くさい女ですよ!」
「それはそうだけど!」
「ハッキリ言うんじゃないわよ!」
激しい叱責。高揚する頬は火傷しそうなほどに赤い。今にも噛みつかんばかりに犬歯をむき出しにして叫ぶ姿はまことに犬のように感情いっぱいであった。
氷月さんは自制心の強い人だと思っていただけに、ふいに後頭部を殴られたようなショックがある。
このままでは学校中に秘密がバレてしまうだろう。計画的犯行によって僕の弱みを握ったのだから氷月さんの方からバレる事はないと安心していたのに、意外や意外、氷月さんが一番危なっかしいのであった。
脅しに使うのなら結構。しかし、リードを常に引っ張っておく必要があるとなると隠しておくだけではいつか破綻する。
「氷月さん、少し落ち着いて。深呼吸しよう、深呼吸」
僕は戦々恐々としながら言った。もっとも、僕が怖れているのは秘密の露見であって氷月さんではない事はここに断言しておく。さきほど大型犬に例えたとおり、いまの氷月さんはむしろ
葛藤に苛まれ、困惑し、どうしていいか分からなくなっている。僕の理想とするお姉さんでも怒るときは怒る。人間性がしっかりしている彼女たちも、ときに怒りに我を忘れる事があり、そういうときは目で助けを求めるものだと思う。そもそも感情をあらわにすること自体がパートナーへの信愛の証なのだ。
見よ。氷月さんの不安そうな目を。
こんな事を言いたいんじゃないのに。怒りたいわけじゃないのに。
そう思えば思うほど叱責が口をついて出る。止めたいのに、止まらない。
自分で自分を止められない不安が氷月さんの目に現れていた。
激しく言葉を散らす事がSOSのサインのように思えた。
僕は氷月さんを止める責任があるけれど、しかし、心の
本当に残念な事に女性と交際した経験が無いのである。怒り狂う女性をどうなだめるかというのは世のお父さん方を悩ませ続ける永遠の難題。その複雑怪奇な証明方法はかの裁判官ピエール・ド・フェルマー氏が遺したフェルマーの最終定理を彷彿とさせ、数百年間もの間男たちを悩ませ続け今も証明に至っていない。多くのカップルを破局に導いたとされる悪魔の証明をどうやって解けと言うのだ?
1限前という事もあってか廊下の人通りは少ない。誰かに聞かれる心配が無いのが幸いだけれど、もし人が通ったら? 薄氷を踏み割って回るような氷月さんがその事を危惧しているとは思えない。
早期解決。無事が一番。しかし……
「なに? 私は冷静ですけど?」
もう何を言ってもダメなフェーズに移行してしまった。
こうなると人がいないうちに解決することは諦めるほかないだろう。謝ろうと言い訳しようとしらばっくれようと、僕が何をしようとも氷月さんの怒りを増長させるだけで効果はない。むしろ逆効果である。放っておくほかはないと神崎も言っていた。
時間をかけてでもゆっくり和解するしかあるまい。
僕は深く息を吸って頭を下げた。
どうせ何を言っても怒らせるのなら、それでバレてしまうのなら、せめて、心当たりがある事だけでも謝っておこうと思ったのだ。焼け石に水であることは分かっているけれど、気持ちの問題だ。
「氷月さんが怒ってる理由は、僕がすぐに断らなかった事だよな。うじうじとして優柔不断な態度をとっていた事が、氷月さんのイライラを増長させてしまったんだろうと思う。嫌な気持ちにさせてごめん」
手伝う手伝わないの結果じゃなくて、お願いを断ったか断らないかが大切なのだと僕は思う。本当に手伝うかどうかは別の話。氷月さんという彼女がいながら他の女の子の頼みを聞いていたということそれ自体が問題だったのだ。
多分、氷月さんは独占欲が強いのだと思う。
「……………………」
「氷月さん……?」
しかし、返事がなかった。
「…………あの、えっと、ごめん」
「………………」
無言が続く。
沈黙が廊下を満たす。
なにか考えているのか。それとも何も言えないくらい怒っているのか。もしこれが墓穴を掘る行為であったなら、この沈黙は後者の方だ。
「嫌な思いをしてるって分かってたのに断らなかったんだ? 八重山は自分の立場を理解してないんだね。私、あなたが出会い系をやってたこと先生に言っちゃおっかな」
なんてことになったらまずい。非常にまずい。
「違うんだ氷月さん! 頼むから先生には言わないでくれ」!と、弁解しようと慌てて顔をあげたとき、しかし、氷月さんが口を開いた。
「ありがとう」
………?
「私のこと、真剣に考えてくれてありがとう。私……恥ずかしい」
「え?」
「八重山の言うとおりだよ。私、八重山がぜんぜん断らないから怒ってた。たったそれだけの事でさ……ああ、恥ずかしい」
話が全く見えない。けれど、怒りは収まったとみていいのだろうか?
顔をあげる。
氷月さんは俯いて頬を掻いていた。
「たかだか幼馴染と話してたくらいで、なに怒ってるんだろ、私」
まるで憑き物が落ちたようにあっさりしていた。ため息交じりに「恥ずかしい」と呟いた氷月さんはわずかに頬を赤らめているものの、いつもの氷の女王である。
声の調子もいつも通りだった。
「怒っちゃってごめんね。ほら、教室に戻ろう?」
「あっ、うん……」
「あ、待って。一緒に戻ったら怪しまれるから、私が先に戻るね。後から来て」
そう言って小走りに去って行った。
僕は
何が何だか分からないけれど、これでよかったらしい。
(まだまだお姉さんと恋をするには早いということか……)
自身の至らなさを痛感した。僕はまだまだである。
もっとイメージトレーニングをする必要があるな。とさらなる飛躍を誓った時だ。とつぜん氷月さんが振り向いたではないか。
やっぱり怒っていたのか?
僕が思わず身構えると、彼女はクスッと笑った。
「ね、私のことを好きになってくれないと……やだよ?」
「…………………」
そのとき授業開始の予鈴が鳴った。
またすぐに振り向いてしまったから分からなかったけれど、「やだよ?」と言ったときの氷月さんの表情は笑っているように見えてその実、どこか寂しそうだった。
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