第11話


 翌日。望まなくとも朝は来る。いくら怖いと思っていても体は目覚めて、空腹を訴え朝食を欲する。


 氷月さんと付き合うことになって初めての学校が始まる。


 別れることはできない。付き合っているとばらすこともできない。もし経緯を問われたら、経緯が知られたら僕の人生は終わってしまう。氷月さんに振られた男子の恨みを買うだろう。氷月さんに嫉妬する女子に利用されるだろう。


 学校という小さな檻の中に僕らは囚われている。様々な意味で注目を集める氷月さんとの秘密の関係は、あたかもアダムとイブを追放せしめた禁断の果実であった。僕が手を出してしまったばっかりに、知ってはならない事を知ろうとしたばかりに、僕は罰を受けたのだ。


 学校という狭いコミュニティの中で――それが世界のすべてである僕たちにとってそれはあまりにも重い罰である。


 学校内でハブられるだけならまだしも、出会い系を使っていた事がバレれば生徒からも教師からも軽蔑されるであろう。そしてその代償を払うのは僕ではなく氷月さんの方なのだろうと思う。


 絶対的な存在というのは多くの羨望を受けると同時に多くの嫉妬を向けられるものだ。テレビで不倫報道が絶えないのも、動画サイトで暴露動画が絶えないのも、心のどこかに潜んでいる「人の破滅する姿を見たい」という欲望を刺激するからコンテンツとして成立しているのだろう。嫌な内容だなぁと思いつつも見てしまうのは個人の性格ではなく、人が生まれながらに持つ競争心が見させるのであろう。


 氷の女王が失脚する姿を、誰もが見たいと思っている。


 僕らの関係が大きな取っ掛かりになる。


 彼らの残虐性があらわになった時、その余波は僕にも及ぶであろう。それは嫌だ。避けねばならない。


 目を開ける。頭を上げるが重い。深い海の底から這いあがってきたような気だるさにため息をついて、僕は転がり落ちるようにベッドから降りた。


「性格や表情が可愛くなければ好きにならない。それって素敵な事だと思うの。そういう『可愛い』を言われたことはいままでないから」


 ―――はぁ


 僕はため息をついた。


 そう思うのなら、どうして追い詰めるような真似をするのだろう。わざわざ弱みを増やしてまで?


 制服に袖を通して、ズボンを履く。


 どれほど嫌だと思っていても体が無意識のうちに学校の支度を終えてしまう。


 朝食を食べて、歯磨きを済ませて、毛髪をほどほどに整えて、靴を履く。


「『可愛い』女の子が弱みを利用するかねぇ……?」


 僕は何度目かのため息をついて、家を出た。


     ☆☆☆


 一ノ瀬高等学校というのが県立の全校生徒400人程度の小さな高校であった。1クラス50人のうち約3割が県外生。それが3クラス。校舎は開校40年の歴史を持つ、大小さまざまな四角形を重ねた幾何学的な外見をしていた。外壁の白いモルタルは最近塗装し直したらしく、築年数に反して真新しく輝いている。


 校舎の真ん中には30メートル四方の中庭がある。この中庭は吹きさらしになっており、床は灰色のレンガタイルが敷き詰められている。天井がないので雪が降ると中庭にも降り積もり、かきだす場所も無いので局所的な豪雪地帯となる。


 中庭を取り囲むように廊下がある。漢字の「回る」という文字の小さな四角が中庭。大きな四角が壁。四角と四角の間が廊下であると思っていただければ、なんとなく校舎の作りが想像できると思うが、それほど大きな校舎ではない。


 3階建ての校舎であり、2階に我らが2年教室がある。


 僕のクラスは2-B。教室のドアに手をかけたとき僕は誰かに声をかけられた。


「おっはよー。今日も暑いねぇ。けんジィのモヤシっぷりに拍車がかかってるよ」


 来栖だった。朝練を終えたところなのだろうか。第一ボタンを開けたワイシャツの襟元をパタパタとはためかせて、体の中に風を送りながら陽気な顔で近づいてくるが、バレー部の黒いユニフォームが透けており無駄に煽情的である。


 僕がモヤシならば来栖は中身の詰まった白桃であろうか。運動をしているだけあって細い体躯にも柔らかな張りがある。特に太ももなどはムチムチとしているのに皮下の筋肉が引き締まっていることが伺える細さで、僕で無かったら思わず見入ってしまうかもしれない健全なエロスがあった。


「おはよう。部活か?」


「うん。大会も近いからねー。練習にも身が入るってもんよ!」


 来栖は、ふん、と右手で力こぶを作る真似をしてみせた。


「朝から元気なやつ……こっちは寝覚めが悪くて気が重いっていうのに」


「あら、悩み事?」


「うん」


「そっかぁ。がんばれ」


「せめて聞けよ」


 僕達はそんな話しをしながら教室に入る。ガラガラとスライドドアを開けてなんとなく教室内を見渡すと、氷月さんと目が合った。


「……………」


「……………」


 お互い無言。しかし、氷月さんの眼はどこか恨めしそうに細められていた。


「なに?」と視線で訊ねると、ふんと顔をそらしてしまった。


「あのさ、けんジィにお願いがあるんだけど」


 来栖の声で我に返る。


「お願い?」と、慌てて来栖を振り向いて言った。


「そう。実は英語の宿題で分からない所があってさ……英コミて5限だったよね。悪いんだけど、ちょっと教えてくれないかな」


「あー、それくらいならいいよ。どれ?」


「作文。読めるけど書けないんだよねー。文章考えてくれない?」


「自分でやれ」


 そう言っておいて氷月さんを再び振り返ると、眉間にしわを寄せてこちらを向くところにちょうど視線が重なった。が、またしても目が合ったとたんに氷月さんは顔をそらしてしまう。


 なんなんだろう、さっきから。


 僕は彼女を無視して言葉を続けた。


「作文ってあれか、好きな映画をプレゼンしろってやつか。来栖の好きな映画ってなんだったっけか。ホラー映画?」


「そう。『去亡いぬなきトンネル』って映画」


 来栖は大のホラー映画好きで、恐怖を味わうためにホラー映画やホラーゲームをかたっぱしから漁っていった結果、怖い物に耐性がつきすぎてしまった困ったヤツだ。


 お化け屋敷に行っても平然とした顔で「あーそこにいるよねわかるわかる」と言い、映画館に行けば「うーん、外連味けれんみを効かせすぎかな。ジャンクフードみたい」とポップコーンに手を伸ばす。


『去亡トンネル』はそんな来栖が見ても怖かったと太鼓判を押している問題作なのだ。当然僕は見ていない。怖いから。


「他に頼める人がいないし、けんジィってなんだかんだ教えるの上手じゃん? だから、お願い!」


「あーー、いい………けど」


「けど?」


「その映画を知らない」


 僕は氷月さんを気にしながら言った。


「大丈夫。私が全部覚えているから。ていうか私が書くからけんジィは単語とか文法を見てほしいな」


「なーるほど……」


 来栖はポンと胸を叩いて言った。


 多分だけど、氷月さんは来栖と僕の会話が鼻についているのだ。秘密とはいえ彼女と付き合っている事に変わりはない。付き合ったばかりの彼氏が女の子と話していたらそりゃあ気になるだろうと思う。


 氷月さんの表情は読めなかった。小説を読んでいるようだけど、耳をそばだてているのがはた目にも分かる。


 何を考えているにせよ、まあ、作文を手伝う事になれば横やりを入れてくるであろう事は想像にかたくない。というか、手伝ってほしくないと思っているだろう。


「それ、他の友達は?」僕は言った。


「あらすじ説明したら逃げちゃった。みんな怖いの無理なんだってさ」


「僕だって怖いの無理なんだが!?」


 僕は最後のとりでであったらしい。一番最初に頼られていない事にホッとする反面、最後に頼られた事が少し残念に感じる。


 平和な日々を過ごしたい僕からしたら断わるのが正解なのだけど、これまで来栖と仲良くやっていたのに、手のひらを返したように素っ気なくなるのは、それはそれであらぬ疑いを招くと思うのだ。つまり、手伝えば氷月さんの機嫌を損ねるが、手伝わなければ来栖の疑念を買うことになる。


「もうけんジィしか頼れる人がいないんだよ~~~~~~」


 来栖はそう言って僕の両肩を掴んでガクガクと揺さぶる。


「土日にやっとけよ!」


「ぶ~~か~~つ~~!」


「だからって放置するのは違うだろう!」


 しかし、ああ、どうしよう。


 このままでは来栖に押し切られてしまう気がする。なし崩し的に手伝う事を約束させられ、昼休みを来栖と潰すことになる。だってそれがいつものやり取りなのだから。そうならないほうがおかしいのだ。


「後生だからぁ。明日の昼ご飯とかおごるからぁ。お願いだよぅ」


 そこで、ホームルームを報せるチャイムが鳴った。


 クラスメイトたちはそれぞれ「やばいやばい」と言いながら席に着いていく。来栖もいったん諦めて席に戻っていく。が、そのなかで氷月さんだけが頬を膨らませて、腕を組んでいた。


 多分、最後のやり取りが一番まずかったと思う。


 ホームルームの間、氷月さんはずっとぷりぷりしていた。

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