第10話


 氷月さんはカフェに入るやいなやブラックコーヒーを頼んだ。僕は苦いのが苦手なのでカフェオレを頼んだ。


「意外ね。八重山ってコーヒーを飲んですかしてるイメージがあったけど」


「僕は苦いものが苦手なんだ。氷月さんの頭の中の僕だって一口飲んでむせているだろう」


「あ、しっくりきた」


 ランチタイムを過ぎたということもあってか客の姿はほとんど見られない。一仕事終えた顔で喉を潤す受付のお姉さん。夕方からの来客に備えてテーブルを拭いて回るウェイターさんたち。買い物帰りに一息つきに来た家族づれの和気藹々あいあいとした姿がのんびりした空間を作る。その一方で、浮かない顔をしたおじさんが店の隅で項垂れているのがリアルで嫌だった。家に居場所がないのだろうか。


 僕はその方を見ないようにして「明日のことだけど」と口火を切った。


「明日からは、いつも通りに過ごした方がいいと思う。先日大喧嘩をしたばかりの僕たちが急にイチャイチャしだすのはどう考えても不自然だし、付き合ったというだけで君への接し方を変えるつもりは毛頭ない」


「それでいいわ。八重山の猫撫で声なんて聞きたくないしね」


「なら、見解の一致ということでいいかな」


「うん」


 ……………。


 会話が途絶えた。


 ほのぼのとしたレストランの空気感が2人を取り巻く沈黙を浮き彫りにするようだった。


 何を言おう?


 氷月さんはスマホを構いだしたし、僕の方からあえて言わなければいけない事はない。いや、正確に言えばあるのだけどでも、ここへ来るまでに氷月さんと話して、時間が空いたせいなのか、別れを切り出す自信がなくなっていたのだ。


 スマホをぽちぽちする事で防御壁を築いたようだった。女性経験もなければ人付き合いも苦手な僕には高すぎる無言の壁だ。何と声をかけたら返ってくるのか。何を言っても無視される気がした僕は俯いて、まんじりと時を過ごした。


 コーヒーカップの中で氷がパキッと音を立てた。その沈黙は長かったかもしれないし、短かったのかもしれない。


 少なくとも、アイスコーヒーの氷が溶けるくらいの時間が経っていた。


 氷月さんがスマホに目を落としたまま口を開いた。


「あたしさ、可愛いって言われるのに疲れた」


「はい?」


 突然なにを言い出すのだろう? 


「可愛いって言ってくる男子は下心が見え見えだし、女子は媚びへつらい、嫉妬、そういうものばっかり。もう放っといて欲しいんだ」


「……つまり?」


「だからぁ。そういう目で見られると、どうせ下心があるんじゃないかって疑っちゃうってこと」


 自慢かと思ったけれどそうではないらしい。スマホから目をあげて上目遣いにじろっと睨みを効かせる氷月さん。


 そういう目……というと、僕の奮闘の目線を言っているのだろうか。手元を見ては勇気を奮い起こし、氷月さんの顔を見てはその勇気がしぼんでいく。その繰り返し。


 別れを切り出そうとする僕の奮闘を下心と間違えられては困る。


 僕はムッとして言った。


「昨日のあたふたした様子とは打って変わって冷徹じゃないか。言っておくが僕は君の魅力に屈したわけではない。確かに可愛いとは思っているが、それはあくまで容貌の話であって君の、氷月凜という女性を可愛いと思っているわけではない。それを勘違いしてもらっては困る」


「ふむ、それで?」


「いまの君と付き合う事はできない。お互いに後ろめたい事がある身だ。それを盾にしたって無駄だぞ。出会い系アプリの事を暴露するなら自ずと君の汚点も明らかになると思え!」


 僕は言い切った。そうだ。連絡先を交換して付き合う事になったとはいえ、それで心をほだされるほど僕は幼くない。言い切った僕は偉い。心の中でガッツポーズをした。


 視線に下心が無かったと言えば嘘になる。伏し目がちになった玲瓏れいろうな瞳が長いまつげの隙間からのぞく。その知的な美しさを漂わせる眼差しに見とれていたことは事実である。


 けれど容貌というのは親からもらった贈り物なのだ。その人の本当の美しさは性格と表情に表れると僕は考えるので、ただ可愛いだけで好きになることはない。


 もう夕方であった。


 家族連れはいつの間にか帰っていて、おじさんも家に帰る決意をしたようである。店内は夕ご飯を求める客でにぎわい始めて、空には一番星が輝いている。


 氷月さんは興味が無さそうに「そうだねー」と呟くと「ねぇ、お腹空いた」とメニュー表に手を伸ばした。


「おい! 無視か!」


「八重山も食べてくでしょ? ほら、割り勘でいいわよ」


 なんて女だ。彼女は僕の決意を無視してご飯を食べようというのだ。いくら容貌が優れていようと人の心を汲み取れない人は美しい人たりえない。


 これからの学校生活を左右する大事な事だというのに、氷月さんは話しを聞くようなそぶりさえ見せずにメニュー表に目を走らせる。その話は終わったでしょうと言わんばかりの冷徹さである。こういうところが氷の女王と呼ばれる所以ゆえんなのだろう。あまりにも冷たい。冷たすぎる。


 僕は答えを聞く気も失せてつっけんどんに「なら、オムライス」と言った。


「あら美味しそう。じゃ、私もそれにしよっと」


 氷月さんはベルを鳴らして店員を呼んだ。


 彼女が注文を取っている間、僕は店内をそれとなく見回して気持ちを落ち着けようとした。


 街の音といったらいいのだろうか。時間帯によって変わる客層の、その移り変わりの瞬間に立ち会うと聞こえてくる音が耳を騒がせる。


 のんびりした空気から一転してにぎやかになりつつある店内。これから忙しくなるのだろうと予感させる人々の動きをじっと見つめていると、忙しない店内の中でゆっくりとしている自分たちが異質なように感じられた。背徳感に近い優越感。なんだか悪い事をしているような気分になる。少し落ち着かないけど心地いい。そんな感覚。そんな音。


(なんだかんだ休日を無駄にしてしまったな……)


 そんな後悔すらも贅沢な悩みに感じられた。


 しかし、休日の2日間を氷月さんと過ごしたというのは、これは考えようによっては幸運であろう。


 見目みめうるわしい氷月さんに恋する男子は後を絶たない。2年男子はほぼ全滅。3年生も徐々に敗北しつつあるとの噂がある。彼女はまさしく高嶺の花。氷の女王というのは、感情が見えないばかりかその心を溶かすのも難しいという意味が込められた最大限の賛辞でもあるのだ。言うなれば攻略難易度マックスのエンドコンテンツである。そんな人と2人きりで会っていたというのは役得という事にしておこう。


 前向きに考えるのなら、僕達の付き合いは『秘密の関係』という事になる。


 2人だけの秘密の関係。付き合っている事はみんなにはナイショ。


 たぶん、ほとんどの男子が憧れるシチュエーションだ。僕だって憧れている。


 表ではつんつんしている彼女が裏では甘えてくるとか、自分だけに優しいとか、そういう妄想は誰だってしたことがあると思う。


 氷月さんにだってそういう裏の顔があるはずだし、こちらが誠意を示せば氷の心も溶かす事ができるのではないか。


 氷の女王と呼ばれる彼女だからこそ、甘える姿は筆舌に尽くしがたき可愛さを見せるのではないか。


 だったら、この状況を好機ととらえてその姿を見てやろう。お姉さんに性格の美しさを求めるとき、お姉さんもまた僕の性格の美しさを求めるのである。


 僕は別れる事を諦めて反対に、氷月さんにとって最高の彼氏になろうと決意した。


「お客様、失礼いたします。こちらご注文の品物からドリンクメニューを先にお持ちいたしました」


 と、ウェイトレスさんがお盆を持ってやってきた。


 ドリンクが一つテーブルの上に置かれる。透明感のある緑色の飲み物の上にバニラアイスが2つ乗っている、クリームメロンソーダだろうか。僕が頼んだのではないから氷月さんが頼んだのだろう。


「ん、きたきた」


 氷月さんは両手をすり合わせて顔をほころばせるとすぐにスマホを取り出して写真を撮り始めた。


 ほら、こういう可愛い所だってあるのだ。付き合う事になった以上は彼女の良い所を探していこう。僕の繊細な心は二度目のシカトには耐えられないし、お姉さん以外を受け入れられないというわけではない。


 両人の趣味趣向が完璧に合致する恋なんてありえないと僕は考える。それを求めるのが子供の恋ならば、ときに諦めて現実を受け入れるのが大人の恋。


 恋心という余計なフィルターが無い分、冷静な付き合いをすることができるだろう。


「それ、一人分? グラスも大きいし、おまけのドリンクにしては結構な量だと思うけど」


 僕はメロンソーダを見て言った。先日食べた何たらツインパフェを連想させる大きさのグラスに注がれたメロンソーダ。バニラアイスもカップアイス一つ分の量はあるだろう。


 そこへ2本のストローを刺しながら、氷月さんはにやりと笑ってメニューを見やる。


 僕は小動物的直観で何かを察した。「……なんか余計な事したね?」


「ふふん、そっちがそのつもりなら、こっちにも考えがあるのよ」


 メニュー表には『カップル限定! らぶらぶオムライス!』と書かれている。これを頼んだのだろうか……氷月さんが?


「なに、これ。らぶらぶ……なに?」


「ケチャップで文字書いてくれるらしいわよ。何でもいいって言うから八重山と私の名前をハートで囲ってもらう事にしたわ」


 氷月さんはそう言うとスマホの画面を向けてきた。そこにはメロンソーダとその奥に座る僕の仏頂面が綺麗に収められている。


「別れるっていうなら、そうしなさい。あなたの気持ちを否定するつもりはないし、私に文句を言う権利はないと思う。それはいいけれど、もし、本当に別れるつもりならば、私はそれを妨害するつもりよ。これはそのための予防線といったところね」


「はあ!?」


「この写真をクラスの男子に見せたらどうなるかなぁ。きっとあなたは市中引き回しの上打ち首獄門。もしくは五右衛門のようにかまでになるかしらね」


 僕が痛めつけられている所を想像したのか氷月さんが楽しそうに肩を揺らす。


「ちょ、ちょっと待って! 僕はたったいま―――」


「いいの。私が面倒くさい事は私がよく分かってる。でもね、さっきあなたが言ったことだけれど、性格や表情が可愛くなければ好きにならない。それって素敵な事だと思うの。そういう『可愛い』を言われたことはいままでないから」


 氷月さんは両手を机についてあごを乗せると、真っすぐ僕を見つめた。


「だからね、どんな手を使ってでも可愛いって言わせるから、覚悟してね」


「はぁ!? なんだよそれ!」


 僕は驚きのあまり席を立った。周りの人々がなんだなんだと注目の視線を向ける。二言三言謝ってから僕は再び席に着いた。


「だから、僕は君と付き合う覚悟を決めたんだって……」


 そうこうしているうちにオムライスが届いた。ご丁寧に『やえやま』と『りん』という文字が大きなハートマークで囲われている。氷月さんは「証拠証拠っと」と言いながらカメラに収めた。


「あ、分かってると思うけど、今度別れるって言ったらこの写真をばらまくから」


「出会い系に加えて写真まで……もはや入念に仕組まれていたとしか思えない……」

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