第二膳 鹹豆漿

志帆の事情、俺の事情

「あの羽城志帆がアイドルを辞める?」


 俺は動揺を隠せなかった。

 繰り返しになるが、羽城志帆といえば国民的アイドル。今が人気の絶頂だ。誰もが志帆の名前を知っている。


 20代後半のアイドルならともかく、まだ15歳の志帆はこれからがアイドル活動の本番だとも言えた。

 俺だって……エトワール・サンドリヨンのことは好きだし、志帆のことは応援していた。


 けれど、志帆は淡々と言う。


「エトワール・サンドリヨンは卒業して、芸能事務所からも退所します。それであたしは芸能活動からは引退です」


「なぜ……そんなことを?」


「光が強すぎる場所には、暗い影が差しますから」


「え?」


「ドイツの劇作家ゲーテの言葉なんだそうです。それがあたしがアイドルを辞める理由のすべてです」


 志帆はそれ以上説明するつもりはないらしい。彼女は「テレビのリモコンをお借りしても良いですか?」と俺に聞いた。


 俺はテレビの電源をつけて志帆にリモコンを渡す。

 ちょうどテレビ東京のニュース番組が流れていた。


「エトワール・サンドリヨンの羽城志帆さん、芸能活動を無期限休止」


 俺はぎょっとした。志帆は寂しそうに微笑む。

 

「こういうことです」


「でも、引退とは書いていないね」


「まだ決定はしていませんから。あくまで一時的なお休みということになっています。エトワール・サンドリヨンの他のメンバーも、事務所もスポンサーも……ママも認めていないですし」


 つまり、アイドルを辞めるというのは志帆個人の考えということだ。周りの誰もが反対しているらしい。


 それはそうだろう。これだけ人気なのだからアイドルを続けてほしいと考える人間の方が多い。

 志帆のいるエトワール・サンドリヨンを俺も見続けたい。


 けれど、個人としての志帆に俺は出会ったばかりで、俺は彼女の事情を何も知らない。

 そんな俺に何かを言う権利なんてないとも思うし、踏み込んで理由を尋ねるのはためらわれた。


 志帆はくすっと笑った。


「ですから、男の子と二人きりで暮らしても平気です」


「ふ、二人きり!?」


「だって、あたしのママは……家に全然帰ってこないですから」


 少し寂しそうに志帆は言う。志帆は母親との折り合いが悪いのかもしれない。志帆の母レティ・ポートマンといえば、フランス出身の大人気女優だ。30代前半だが、見た目は20代前半にしか見えない超美人でテレビでも引っ張りだこ。


 つまり、レティと志帆はふたりとも超人気芸能人の母娘だ。

 この親にしてこの子あり、とよく言われている。


「まあ、うちの父もほとんど帰ってこないけどね。でも、さすがに結婚したら戻ってくるんじゃないかなあ」


「いえ、それはないと思います。兄さんのお父様と、あたしのママは二人で別の家に住む予定みたいですよ」


「は……?」


「再婚した夫婦からすれば、連れ子なんて邪魔者じゃないですか。あたしたちは二人にとってはいないほうが都合が良いんです」


 淡々と志帆は告げる。どこの世界にそんな非常識な親がいるのか、と思ったけれど、うちの父ならありえる。


 父は徹頭徹尾、俺に無関心だ。


 問題は志帆の母の方だ。年頃の娘、それもアイドルをやっていた娘を男と同居させるなんて、本当に良いと思ったんだろうか?

 

 仮に母と娘が別居するにしても一人暮らしという手もあったはず。

 何か事情がありそうだ。


「どこの馬の骨とも知れない男と、大事な娘を同居させるつもりなんて本当にあるのかな?」


 志帆の個人的な事情には踏み込むつもりはないけれど、これは俺にも関わる問題だ。

 けれど、志帆はふふっと笑い、赤い髪の毛先をいじった。


「『どこの馬の骨とも知れない』なんて嘘でしょう。兄さんは小牧家の御曹司でしょう?」


 今度は俺が黙る番だった。

 帝都急行電鉄、略して帝急は関東で最大の私鉄だ。俺はその創業者で子爵・小牧一三の直系の子孫であり、一応、小牧家の後継者候補ということになっている。


 そういう意味では、俺は由緒正しい名門の生まれなのだ。ただ、それは俺自身にとっては重荷だった。


 志帆が俺を見つめる。志帆は俺の質問に正面から答えるつもりはないらしい。

 ただ、「ごちそうさまでした。本当に美味しかったです」と俺に手を合わせる。


 そして、少し恥ずかしそうに俺を見上げる。


「あの、兄さん。シャワーをお借りしても良いですか? 暑くてベタついちゃって……」


 季節は夏。この部屋はクーラーが効いているといっても、ここに来るまでは汗もかいただろう。


「もちろん」


 俺はその言葉とともに立ち上がった。志帆を風呂場のある場所に案内する。

 このタワマンは4LDKなので、二人で暮らすにしても広すぎるな、と改めて思う。


 それでも少しは狭くなる。それがちょっと嬉しかった。

 廊下を歩き、俺たちは風呂場まで来た。脱衣場の前で俺は退散するつもりだったのだけれど、志帆は脱衣場の奥の風呂場の扉を開ける。


「わあっ、すごく広いですね! 二人でも余裕で入れそう……」


 そうつぶやいた後、志帆ははっとした顔をした。

 そして、俺を振り向き、ドギマギした様子で頬を赤くする。二人で入る、なんてこの状況で言えば、志帆と俺を想像してしまうわけで。


「兄さん……あの……」


「わかってる。もちろん、覗いたりなんかしないよ」


「いえ、兄さんはそんなことしたりしないって信じていますけど、でも……ありがとうございます」


 俺はタオルとシャンプー、ボディーソープやリンスは自由に使っていいよ、と伝えた。それで俺の役目はおしまいだ。着替えは手提げ袋で持ってきているみたいだし。


 俺が立ち去ろうとすると、「兄さん」と呼び止められた。

 そして、志帆ははにかんだように笑う。その笑顔は、まるで女神のように可憐だった。


「明日の朝ごはんも楽しみにしています」


「ああ。期待していてよ」


 俺はくすっと笑うと、志帆もふふっと笑い返した。

 本当に俺たちがちゃんとした家族になれるのか、わからないけれど。でも、ともかく、明日の志帆が笑顔でいてくれるような、ご飯を作ってあげたい。


 そう俺は思った。


 ……一ヶ月も経たないうちに、志帆が「兄さんと一緒にお風呂に入りたいです!」なんて言い出すとは、このときは想像もしていなかった。






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