中
瞼の向こうから感じる眩しさと、微かな生活音で月乃の意識は浮上していく。
つけた記憶のない部屋の明かりに戸惑いながら上体を起こした月乃は、居間と同様に明かりのついている台所へと足を向けた。
「おはよう月乃ちゃん」
よく眠れた? と夕餉の支度をしていた秋夜は手を止めて聞いてくる。
「は、はい……」
「もうすぐご飯できるから、待っててね」
秋夜に促されるままに台所で手を洗いながら、月乃は未だ覚醒しきっていない頭で「久々に寝ちゃったなぁ」と暖気に考える。別段、彼女の睡眠時間が足りていないわけではない、若干コンプレックスになっている背の低さから毎日最低でも8時間は寝るよう努めているし、眠りの質を高める方法を自由研究と称して模索したこともある。しかし体育などがあった日には寝てしまうことがしばしばあった。今日もそういうことだろうか――と。
「……」
「? どうしたの?」
突然固まった月乃に目ざとく気づいた秋夜はそう聞いて来た。
「な、なんでもないです、はい」
我に返った月乃はそう言ってそそくさと居間に戻っていく。
パタンッと大きな音を立てながら閉められた扉の前で、月乃は震えながら締め付けられるような感覚を訴える胸に左手を当てる。
兄の、秋夜の言動に違和感はなかった。寧ろいつも通り過ぎて不自然にすら思うほどで、月乃の見た限りでは告白を受けたか否かの判断はつかなかった。
とはいえ月乃は別段人間観察が得意というわけではない。一目で見分けのつくわけがなかったし、何かあったなら兄は自分に言うだろう――そう兄への信頼で自分を納得させて、月乃は大きく深呼吸する。
「……よし」
台所の秋夜に「着替えてきます」と言って、丁寧にソファーの横に立てかけられていた鞄を持って二階の自室へと向かっていく。その声は先までとは異なり、非常に芯のある声音だった。
「……そっか」
ふと漏れた声音は非常に寂し気だったが、それは誰に聞かれることもなく生活音にかき消されていく。一拍遅れて自分でもらしくないと思う言動をしたことに苦笑しながら、二人分の茶碗を取り出して丁度炊けたことを知らせた炊飯器の前に立った。
■■■■
「……」
「……」
月乃にとって非常に居心地の悪い沈黙が居間を支配している。
寝支度を整え、秋夜と月乃は同じ机で課題に手をつけていた。
しかし月乃の手の進みは悪い。何度も対面している秋夜を気にして手を止めているが、話しかける勇気もなく、しかし気になる気持ちは抑えられずで悶々としてしまい中々課題に集中できていないのだ。対して秋夜は時折行き詰まり手を止めてこそいるものの、順調に課題をこなしている様子。もしかしたら月乃に見られていることにも気づいていないのかもしれない。
そう考えながら秋夜を見ていると、突然目があった。
「どうしたの月乃ちゃん」
「!?」
本当に突然であったため、月乃は反射的に目線をノートに移し何事もなかったかのように振る舞う。しかしそれも集中できず。暫くしてから顔を上げれば、秋夜は頬杖をつき、いつもの笑顔で月乃を眺めていた。
「う……兄さん、課題終わったんですか」
「もう終わってるよ」
難しい課題じゃなかったからね。と苦笑しながら秋夜は言葉を続ける。
「何か悩み事?」
「……そういうのじゃ、ないです」
「じゃあ、体調悪い?」
「そうでもないです……兄さん」
「ん? どうしたの?」
恐る恐るといった様子で秋夜と目を合わせるが、ダークブラウンの瞳はいつものように笑っている。懸念は杞憂と、そう思いたくなるところだが、秋夜の高い演技力がその考えに待ったをかける。
秋夜の演技力の高さは月乃もよく知っているところだ。というのも彼女は日ごろからこの演技でからかわれる被害者である。まんざらではないのだが、故にこそ、こういう時の秋夜の表情は当てにならないと考えている。
「兄さんはその――」
故に、こうした場合は本心を口にするのが最適解だったりするのだが、どうしても言葉を紡げない。声にしようとすればするほど、関係性が崩壊することへの恐怖と、秋夜に踏み込むことへの躊躇いが膨れ上がり、踏みとどまってしまう。
――行動しないと後悔することもあると思うよ?
「――こ、告白! ……受けたんですか?」
「……」
千早の言葉が甦り、月乃は叫ぶように言葉を吐く。
あまりの勢いに虚をつかれたように秋夜は目を見開いた。見たこともない秋夜の表情に血の気が引いてく感覚を覚えた月乃だったが、秋夜はすぐに笑顔に戻って口を開く。
「受けてないよ」
「そ、そうなんですか……?」
「知らない子だしねー。もしかして、それで悩んでたの?」
「……」
コクリ、と月乃が頷けば、秋夜は「そっかぁ……」と合点がいった様子で微笑まし気に目を細める。
「な、なんですか」
「んー? 月乃ちゃんは可愛いなーって」
「――っっっ! かっ、からかわないでください!」
「からかってないよ」
「え?」
落ち着いた、月乃の怒りを萎ませるような低い声音が耳朶を打つ。
いつもの秋夜ならお道化た様子で「あはは、バレちゃった」と笑って、月乃がそれに拗ねる――この流れがお約束になっていただけに、月乃は驚きのあまり固まってしまった。
「家族にお世辞を言えるほど、器用な人間じゃないもん。僕」
「で、でも毎日私のことそう言ってからかってるじゃないですか」
「それは月乃ちゃんの勘違い。僕から冗談って言ったことないでしょ?」
そう言われ、月乃があらためて記憶を振り返ってみれば、確かに「可愛い」が冗談であると秋夜から明かされたことはない。いつも月乃が疑ってかかるとそれを認めていただけ。
であるなら、なぜ秋夜は月乃の疑念を否定しなかったのか……。
「僕にだって恥じらいくらいあるからね」
「……口にしてましたか?」
「可愛いお顔に書いてあったよ?」
「……その言い方は禁止です」
熱くなった顔を背けながら月乃は言う。
こういうことを言われること事態は嫌ではないが、素面で言われるのはズルいと月乃は常に思っていた。しかしいつものやり取りをしていないのなら、秋夜も照れた表情をしているのだろうか……ふと湧いた疑問が急激に膨らみ、好奇心から反らした目線を再び秋夜に向けたが特に表情に変化はない。
「どうしたの?」
「照れてないじゃないですか」
頬を膨らませてそう訴えれば、秋夜は笑って「そうかな?」と聞き返す。
「全然顔が真っ赤になってないじゃないですか」
「実は我慢してるんだよね」
「我慢しないでください」
「嫌です。だって――」
秋夜は真面目な顔をして月乃と目を合わせる。
「――好きな子の前で、格好悪い姿は見せたくないからね」
月乃の頭の中は真っ白になった。
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