『前世』
前世の自分がどのように命を落としたのか、どのような恨みを抱えていたのか。
それは生まれ変わればリセットされてしまう儚い記憶である。
私はじっと壁の穴を見つめていた。どうして自室にこんな穴があるのか、全く理由がわからない。
穴がベリベリと音を立てて大きくなって、穴の向こうから三毛猫がひょっこり顔を出した。三毛猫はニャアと鳴くと穴を潜り抜けることはせず、ひょろりとどこかへ去っていった。
この壁はこんなに薄かっただろうか。
紙のように、容易く破れるものなのだろうか。
父が部屋のドアをノックした。
何か言っているが、その言葉がまるで聞き慣れない異国語のようで全く聞き取れない。
何故だか不安が拭えない。自分がここにいる理由がわからない。
私は不審がる父には何も言わずに、簡単な荷物を持って家を出た。
向かった先は、喫茶店のようでもありセミナー室のようでもある、テーブルが並んだだけの不思議な空間だった。
黒縁眼鏡をかけた小柄な男が、にこにこと笑いながらテーブルの間を縫うように歩いている。
「ここにいる皆さんの目的は同じです。自分を知る、自分を認める。これから皆さんに便箋を配りますから、その便箋に自分への手紙を書いてみましょう。未来の自分、過去の自分。もちろん今の自分でもいいんですよ」
眼鏡男はそう言うと、それぞれのテーブルに何種類かのレターセットをまとめて置いた。
私のテーブルには三種類のレターセットが置かれた。ひとつは白無地の和紙のもの、もうひとつは猫のシルエットが描かれた洋風なもの、もうひとつは知らないキャラクターが描かれたファンシーなデザインのもの。
私はそれらを見つめてしばらく考えた。いつの自分に手紙を書くべきか。いや、書きたい自分は決まっている。
「あの」
眼鏡男に声を掛けると、眼鏡男はにこにこ顔のまま振り向いた。
「どうしました?」
「あの、手紙なんですけど、今のこの私じゃなくて、前世の自分に書いてもいいんでしょうか」
「ええ、もちろんですよ。前世も現世も自分であることに変わりはありませんからね」
私はほっとして、猫柄の便箋を袋から取り出した。そしてテーブルに置かれた万年筆を握ると、ゆっくり文字を書き始めた。
あなたは悲惨な死を遂げます。
来世でも決して幸せにはなれません。
けれど、私は成し遂げてみせます。
あなたの代わりに復讐します。
だから、心配しないでください。
もう、ほとんど記憶には残っていない。
けれどうっすらと覚えている。
壁に空いた穴、胸を貫いた弾丸、逃げ去っていく飼い猫、倒れる私に駆け寄る父。
下手人は……
終
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