幸せを測る秤は、時間ではない
春風秋雄
俺には時間がない
妻の七回忌を終え、俺はもう妻に義理立てしなくてもよいだろうと、自分自身に勝手な言い訳をし、新幹線に乗った。俺もあと2年で還暦を迎える。まだ人生のエンディングには早いと言われる年かもしれないが、俺には時間がない。まだ元気なうちに、どうしても会っておかなければならない人がいた。
義父から引き継いだ会社は俺の代でつぶすこともなく、いまでは息子の清晃(きよあき)が立派に経営を切り盛りしている。もう俺がいなくても、会社は問題ない。
新横浜を過ぎたあたりで、興信所からもらった資料にもう一度目を通す。俺が伝えた情報だけで、よく調べたものだと感心する。
『奥村(旧姓:星野)一恵。現在47歳。
現住所:兵庫県美方郡香美町(旧香住町)
家族は長男 誠治(せいじ)22歳。
配偶者 奥村勉とは8年前に死別。
現在は香美町にある海鮮料理屋にて調理ならびに配膳の仕事をしている。
長男の誠治は、今年岡山大学を卒業後、岡山市内の建設会社に勤務。』
旦那さんは8年前に他界したとのことだが、いつ結婚したのだろう。そして、誠治くんという子供は、現在22歳ということだが、旦那さんの子供なのだろうか。それとも…。
俺の名前は浜崎清治(きよはる)。東京に本社を置く浜崎設備工事株式会社の社長をしている。現在58歳だ。俺は大学を卒業してから浜崎設備工事に入社して、27歳の時に会社で働いていた社長のひとり娘に見染められ、婿養子になった。特別その女性が好きだったというわけではない。ただ、少しわがままな性格だが、綺麗な女性だなとは思っていた。俺はそれまで恋愛らしい恋愛をしたことがなく、結婚とはこういうものかもしれないと思って結婚に承諾した。もちろん、次期社長の座が約束されているという打算もあった。
今から会いに行く一恵との、出会いと一緒に過ごした日々は、今でも忘れることができない。
俺は結婚後にとんとん拍子で出世し、34歳の時に部長になった。部長としての初仕事として兵庫県の豊岡市の現場を任されることになった。俺がそれまで手掛けた仕事の中では一番大きな仕事で、1年間の工程予定だった。基本的に現場は課長に任せ、俺は月に2回ほど、豊岡へ行って進捗状況を確認するという予定だった。豊岡へ赴くと、仕事が終わってから部下を連れて慰労を兼ねて飲みにも行く。最初は豊岡で飲んでいたが、ある時、城崎温泉まで行ってみようということになった。タクシーで20分程度のところだ。そこで飛び込みで入ったバーに一恵がいた。綺麗な顔立ちだが、東京の女性と違い、素朴な雰囲気がする一恵を見て、俺は今までに会ったことがないタイプの女性だったので、一目で虜になってしまった。それから俺は豊岡へ行くたびに一恵に会いに城崎温泉まで飲みに行くようになった。会社の連中とも行くが、一人で行くこともあった。その店は地元の人か観光客しか来ない店なので、東京から来ている人が度々来るということはなかったらしく、一恵も俺に興味を示してくれていた。俺は色々理由をつけて、週に1回は豊岡へ行くようになった。2か月ほど通うと一恵と親しく話すようになった。そして一恵は豊岡に住んでいると話してくれた。俺はラストまで飲んで、一恵に一緒にタクシーで豊岡に帰ろうと誘った。一恵の家は2階建てのアパートだった。そうやってラストまで飲んでタクシーで送って行くことが2回続いて、3回目の時は、俺はしこたま酔っていた。タクシーの中で寝てしまい、タクシーが止まって目を覚ますと俺が泊っているホテルだった。
「浜崎さん、ホテルに着きましたよ」
「あれ?一恵さんのアパートではないの?」
「浜崎さんが、かなり酔っていらっしゃったので、先にホテルにつけてもらいました」
「あ、そうなんだ。じゃあ、これ一恵さんのアパートまでのタクシー代」
俺はそう言って財布から1万円札を出して渡そうとした。
「こんなにいりませんよ。じゃあ、ここまでの料金をこれで払いますね」
一恵はそう言って1万円札を運転手に渡した。そしておつりと領収書を俺に渡してくれた。一恵は奥に座っている俺を降ろすために、一旦タクシーから降りた。俺はタクシーを降りようとしたが、ドアステップに躓いて転びそうになった。
「あぶない!」
一恵が支えてくれて、俺はころばずにすんだ。
「部屋まで送っていきます」
一恵はそう言って、運転手に「ありがとうございました」と言ってタクシーを帰らせた。
一恵は俺に肩を貸して、部屋の中まで連れて行ってくれた。ベッドに寝かせようとする一恵を、俺はそのまま引き寄せた。目と目が合う。一恵は、そうなることを予想していたのか、何も抵抗しなかった。
それからは、一恵の店に行くと、ラストまで飲んで、タクシーで俺が泊っているホテルへ行くというパターンが出来上がった。たまに部下を連れて飲みにいかなければならなくなったときは、もう1泊して翌日ひとりで一恵に会いに行った。
半年が過ぎた頃、他の業者の作業が遅れている関係で、工程がかなり厳しくなってきた。俺はそれを理由に豊岡にマンションを借りて、単身赴任で現場に張り付くことにした。月曜日から土曜の朝まで豊岡で過ごし、土曜日の夕方に東京へ帰り、月曜の朝に東京を出て豊岡に向かうというスケジュールだ。マンションは一恵のアパートから歩いて数分の場所にした。一恵に合鍵を渡し、一恵は毎日俺のマンションに来てくれた。
俺は生まれてこの方、こんなに女性を好きになったことはなかった。これが恋愛というものかと思った。会えない時間が辛く、週末に東京へ帰りたくないと思い始めた。工期が大詰めになった頃、俺は週末に東京へ帰らず豊岡で過ごした。妻には仕事が大詰めで、現場を離れられないと言い訳した。もうすぐ豊岡での仕事が終わってしまうので、そうなると頻繁に一恵に会うことができなくなってしまう。だから、俺としては、今のうちに少しでも長く一緒にいたいという気持ちだった。
すると、その翌日の月曜日に義父の社長が何の前触れもなく、いきなり現場に現れた。驚いた。社長が自ら現場に出向くことはめったにない。しかも俺にとっては大きな仕事だが、会社としては珍しくもない規模の仕事だ。社長は一通り工事の進捗状況を報告させ、現場の社員に一人ずつ声をかけて回った。
仕事が終わり、課長と3人で食事をしたあと、社長は俺に言った。
「城崎温泉にみんなが良く行くバーがあるそうじゃないか。そこに連れて行ってくれ」
俺はドキッとした。社長は課長を帰らせ、俺と二人でタクシーに乗った。
店に入ると、何も知らない一恵が俺たちの席に着いた。俺が一恵に「うちの会社の社長です」
と紹介すると、一恵は名刺を差し出し、
「いつも会社の方々にはお世話になっています」
と挨拶した。
「あなたが一恵さんですか。清治くんは、私の娘婿で、将来はうちの会社を任せるつもりでいます。つまり、大切な跡取りなんですよ」
「そうなんですね」
一恵は初めて聞くように調子を合わせた。すると社長は
「それで、一恵さんにお願いなんですが」
と改まって言った。
「何でしょう?」
一恵が聞くと、社長は真剣な目で言った。
「清治くんと別れて下さい」
俺は頭が真っ白になった。そのあと社長が一恵に何か話していたが、俺は深い水底に落とされたように、何も聞こえなかった。ただ、一恵が涙を流しながら社長の話を聞いているのを見つめていた。
店を出て、タクシーの中で社長が言った。
「清治くん、外で女を作るなとは言わない。ただ、本気になるな。そして、絶対に娘にも、社員にも、知られないようにしなさい」
社長はそれ以上何も言わず黙り込んだ。おそらく現場では俺と一恵の仲が噂になっていて、社長の耳にも入ったのだろう。
俺はすぐにマンションを引き払い、東京へ帰った。工事が予定通りの工期で完了したと聞いたのは、その1週間後だった。
新幹線が京都に着いた。これから在来線の特急に乗り換え、約2時間かけて豊岡まで行き、そこから山陰本線に乗り換え約50分ほどで香住に着く。実に東京から6時間の旅だ。
ようやく香住に着いたのは夕方だった。かなり疲れた。若い頃は東京から豊岡まで平気で通っていた。疲れは感じず、早く一恵に会いたくて、なかなか着かない電車にイラついていただけだった。しかし、この年になると、豊岡まででも体はきつかった。それからさらに50分。一日の体力をすべて使い果たしたみたいだった。
一恵が働いている海鮮料理屋は地図を見ると、駅からそれほど離れていない場所にあった。開店は何時からだろうと、ネット検索をするが、ネットにその店はあがっていなかった。仕方なく駅前の喫茶店に入って、18時まで時間をつぶし、もう開店しているだろうと、一恵がいる店に向かった。
店に入ると、3組ほどの客がいた。注文をとりに来た女性は一恵ではなかった。俺は紅ズワイガニの定食とビールを注文した。店内を見渡すが、一恵らしき女性はいない。厨房にいるのだろうか。しばらくすると先ほどの女性がビールを持ってきてくれたので、聞いてみることにした。
「こちらに奥村さんが働いていると聞いてきたのですが」
「お客さんは一恵さんの知り合いですか?」
「ええ」
「今厨房に入っていますけど、呼んできましょうか?」
「お願いできますか」
女性が厨房の中に声をかけている。すると、奥から女性が顔を覗かせて、俺の方をチラッと見た。間違いなく一恵だ。そのまま一恵は奥にひっこんで出てこない。しばらくすると一恵が出てきて、定食を持って俺の席にきた。
「紅ズワイガニの定食です。私が奥村ですが、私に何か御用でしょうか?」
一恵は俺のことがわからないのか、それともとぼけているのか、そう言った。
「浜崎です。浜崎清治です。わかりませんか?」
「浜崎さん?ああ、浜崎設備工事の。その節は、大変お世話になりました。お元気そうでなによりです。では、私は仕事がありますので、これで失礼します」
一恵はそう言ってまた奥に消えて言った。
一恵は明らかに俺のことを覚えている。その上であのような対応だったということは、俺とはもう関わりたくないということか。
俺は定食を食べながらどうしようか考えた。そして、カバンからメモ用紙を取り出し、メッセージを書いた。レジで会計をする時に、先ほどの女性にメモを渡し、奥村さんに渡してもらうよう頼んだ。
その日は香住にある旅館に泊まった。風呂からあがり、明日はどうしようかと考えていると、スマホに知らない番号から着信があった。時計を見ると10時を過ぎたところだった。直感的に一恵だと思って電話に出る。
「一恵か?」
「あなた、どういうつもりなの?こんな田舎町ではすぐに変な噂が広がるから、お店には来てほしくないの。それに、今さら会って、どうしようというの?」
「ごめん、どうしても話したいことがあって」
「まあいいわ。私も渡したい物があるから、今から出て来られる?」
「どこに行けばいい?」
俺はメモに泊る旅館の名前を書いておいたので、一恵は旅館からの道順を事細かく教えてくれた。
一恵が教えてくれた場所は古い一軒家だった。呼び鈴を鳴らすと、一恵が玄関を開けてくれた。
「中に入れるけど、変な気はおこさないでね」
俺は苦笑した。
「もうそんな年ではないよ」
客間と思われる座敷に通され、座卓を挟んで座る。前もって用意していたのだろう、座卓の上には急須と湯呑が置かれており、お茶を入れてくれた。
「一軒家に住んでいるんだ」
「亡くなった旦那が残してくれたもの。それで話とは?」
「まず、確認しておきたいのは、誠治君の父親は、俺なのか?」
一恵は黙ったままジッと俺を見た。
「どうなんだ?教えてくれないか?」
「あの子の父親が誰であろうと、もうあなたには関係ないことです」
その言葉で俺は確信した。誠治君は俺の子なんだ。
「実は、俺はガンに侵されている。もうすぐ入院して手術と先進医療による治療が始まるが、どうなるかわからない。だから、もし誠治君が俺の子であるなら今のうちに認知しておきたい」
「ガンなの?どこが悪いの?」
「肺ガンだ。おかしいよね。タバコをやめて20年以上になるのに、肺ガンになるなんて」
「治らないの?」
「わからない。まだステージⅡだが、それでも5年後の生存率は52.7%と言われている」
「じゃあ、可能性はあるのね?」
「まあ、五分五分といったところだ。だから、教えて欲しい。誠治君は俺の子なのか?」
一恵はため息をついたあと、ボソリと言った。
「そうよ。あなたの子よ。最近、あの頃のあなたによく似てきたわ」
「誠治君は、自分の父親が誰なのか知っているのか?」
「奥村が父親ではないということは知っているけど、父親が誰なのかは教えていない」
「そうか。会わせてもらうことはできないか?」
「それは誠治に聞いてみないと何とも言えない。あの子は自分の父親は奥村だけだと言っていたから」
「わかった。それでも、一度聞いてみてくれないか。俺に会う気はないかと」
「聞いてみるけど、期待はしないでね。それで、あなたに渡したい物があるの」
一恵はそう言って、用意していた物を差し出した。
「これをお返しします」
渡されたものは、俺名義の通帳と印鑑とキャッシュカードだ。一恵と別れてすぐに、俺が一恵に送ったものだ。中を開くと入金しておいた300万円が手付かずで残っていた。その代わり、時々1000円を入金して、すぐに引き出すということが繰り返されていた。口座が凍結しないように口座を動かしていたのだろう。
「どうして使わなかったんだ」
「私は、あなたに奥さんもお子さんもいると知ったうえであなたと関係を持ったの。だから、いつかは別れの時がくるということは最初から覚悟していました。それでも、どんなに短い期間であろうと、あなたと過ごしたかった。あなたと過ごす一日、一日が、私にとっては大切な、かけがえのない、人生の1ページだったの。だからあなたのお義父さんがきて、突然別れの日が来ても、私は満足だった。あなたと過ごした日々が消えてなくなるわけじゃないから。それなのに、こんな物を送ってこられたら、手切れ金としか思えないじゃない。私はそんな女じゃないし、これを受け取ったら、私の大切なあなたと過ごした日々が汚されてしまう。そう思ったから、一切、手を付けなかったの」
俺は単純に一恵に何かしてあげたくてこのお金を送ったのだ。でもそれは浅はかな考えだった。一恵の気持ちをもう少し考えてあげればよかった。
「わかった。申し訳なかった。これは素直に返してもらうことにする」
一恵は、肩の荷が下りたようにホッとした表情をした。
「そのうえで、改めて、これを受け取ってくれないか。これは誠治君が将来結婚する時のお祝いということで、父親として何もしてあげられなかった俺に、せめてそれくらいさせてもらえないか」
一恵はしばらく考えていたが、ようやく口を開いた。
「わかりました。それでは、誠治の結婚祝いということで受け取ることにします。ただし、それは今ではなく、誠治の結婚が決まった時に改めてもらうことにします。ですから、それは一旦お持ち帰りください」
「でも、その時には、ひょっとしたら俺は…」
「必ず、ご自身の手で持ってきてください」
一恵がどういう意図でそう言っているのかがわかって、俺はそれ以上何も言えなかった。
「それと、先ほどの認知の件はお断りしておきます」
「それも誠治君の意向を確認してもらえないか?俺は出来たら認知したいと思っている。でも誠治君がどうしても嫌だというのなら諦める」
「でも、そんなことしたら奥さんが怒るでしょ?」
「妻は6年前に身罷った。もう7回忌も終わったし、妻もつべこべ言わないだろうと、俺はここにきたんだ」
「奥さん、亡くなっていたんだ…」
「あと、息子にはすべて話した。ひょっとしたら、お前の弟がいるかもしれないということも。息子はいい顔はしなかったが、父さんの人生だから、好きにすれば良いと言ってくれた」
そのあと俺は、誠治君の写真だけ見せてもらい辞去することにした。
玄関でしゃがんで靴を履いていると、後から一恵が抱きついてきた。
「少しの間だけ、こうさせて」
俺は黙って俺の肩に置かれた一恵の手に俺の手を重ねた。
「懐かしい背中」
しばらくそうしていたあと、俺は踏ん切るように立ちあがった。
振り向くと、一恵は目に涙を溜めて言った。
「必ず、病気を治してね。絶対だよ」
香住から帰って、1週間後に俺は入院した。その間、一恵からは何も連絡はなかった。やはり誠治君には会えずに、俺の人生は終わるのかもしれないと思った。
ところが、神は俺を見放していなかったのか、それとも妻がこんな俺にはまだ会いたくないと思ったのか、手術は成功し、俺は何とか退院した。しかし、いつ再発するかわからない。体力的な問題もあるが、精神的に仕事に復帰する元気がなく、清晃に言って社長を交代してもらい、俺は非常勤の会長職になった。
仕事をしていないと、毎日が暇だった。清晃は所帯を持って自分の家を建てて暮らしている。広い家に俺はひとりで本を読んだり、懐かしい映画のDVDを観たりしながら過ごしていた。
ある日、清晃がいきなり家にやって来た。
「父さん、今日はお客さんを連れてきたから紹介するよ」
そう言って、若い男性を家に入れた。その顔を見て驚いた。一恵に見せてもらった写真の男性だった。
「こちら奥村誠治君。父さんの息子だよ」
俺は驚いて、二人の息子の顔を交互に見た。
「どうして?」
「父さんの話を聞いて、母さんがいたのに何やってたんだよと、ムカついていたけど、自分に兄弟がいると聞いてから、無性に会ってみたくなって、会いに行ったんだ。父さんにそっくりでビックリしたよ。間違いなく俺の弟だって思った。そしたら、俺は一人っ子で育ってきたから、自分に兄弟がいるというのが何か嬉しくて、色々話していたら馬が合って、それ以来何回も会っている」
「初めまして、奥村誠治です。血の繋がりがどうであれ、僕はあなたのことを父親だとは認めていません。僕の父親は奥村のお父さんだけです。でも、僕をこの世に送り出してくれたことだけには感謝しています」
「そうか、うん。ありがとう。そう言ってもらえるだけで充分だ」
俺は誠治君の手をとり、そう言いながら涙があふれてくるのを止められなかった。
「それで父さん。誠治君にうちの会社に来てもらうことにしたから」
「そうなのか?」
俺は誠治君を見た。
「清晃さんに説得されて、今の会社には退職願いを出しました」
「将来は、俺の肩腕として助けてもらおうと思っている。来月には東京に来てもらう予定だよ」
何という展開なのだ。俺は頭がついていかなかった。
「それで、問題は誠治君のお母さんのことなんだけど」
「一恵さんも東京に来るのか?」
「母さんに一緒に東京へ行こうと言ったのですが、首を縦に振らないんです」
「どうして?東京で暮らすことに不安があるのか?」
「そうじゃなくて、浜崎さんは、誠治の認知の件で話しにきたけど、私のことは何も言わなかった。だから、私は東京に呼ばれていないから行かないと言うんです」
「だって、それは…」
俺はその後の言葉が出ず、清晃を見た。
「母さんがいなくなって、もう7年になるし、これからどんどん年老いていく父さんが、一人でこの家にいるのは心配だから、俺はそろそろ再婚してくれた方が安心できるけどな。うちの嫁さんに父さんの面倒をみさせるのも嫌だし」
清晃は俺の顔を見ずにそう言った。
東京から6時間かけて香住まで行くのは2回目だが、前回より体が楽だ。気持ちの問題だろう。まるで昔、豊岡まで通っていた頃のように、早く着きたいと電車にイラついていた。
その日は海鮮料理屋は休みだと誠治君から聞いていたので、俺は香住駅から直接一恵の家へ向かった。俺からは連絡していないが、ひょっとしたら誠治君から俺が行くことを一恵に連絡しているかもしれない。
呼び鈴を鳴らすと、一恵が玄関を開けてくれた。一恵は俺が来ることを知っていたようで、化粧をし、身なりを整えて待っていてくれた。俺は玄関に立ったまま言った。
「一恵さん、俺と一緒に東京で暮らしてもらえませんか」
「本当に、私が行ってもいいんですか?」
「一緒に暮らしてもらう相手は一恵さんしか考えられません。ただし、俺はいつ病気が再発するかわかりません。ひょっとすると、長く生きられないかもしれません。それでもいいですか?」
「だったら私は、いつお別れの日が来てもいいように覚悟します。それでも、どんなに短い期間であろうと、あなたと過ごしたいです。あなたと過ごす一日一日を大切に、人生の1ページを増やしていきたいです」
一恵はそう言って、俺に抱きついてきた。そして、俺の胸の中で小さな声で言った。
「今日は、ここに泊まっていってください。食事も用意しています」
俺はそっと一恵の背中に手をまわした。
これから俺の人生のエンディングが始まろうとしている。ただ、そのアウトロ(終奏)は、とても心地よい音色を響かせてくれそうな気がした。
幸せを測る秤は、時間ではない 春風秋雄 @hk76617661
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