本編

 大学四年生になり、就職活動も終わって、後は卒業論文を提出するくらい、という時の話だった。


 ある一人の、ゼミの男子と仲良くなった。


 とても自己犠牲的な男子だった。


 ゼミのグループのためにどんな負担も呑み込み、受け止め、受け入れる。


 そんな彼に余裕がありそうには見えないけれど、余裕がある風に見せかけている。


 当たり前のように自分より他人に重きを置く、傷だらけでぼろぼろの青年だった。


 摩耗し、削り切り、もう立っているのがやっとという風にしか見えなかった。


 ふと彼と帰りが一緒になった時のことだ。


 いつも通りぎこちない――というか、無理矢理表情筋を歪めているようにしか見えない面持ちで、彼はこう言っていた。


「ぼくは、早く死にたいんだよね。だから生きてる」


 意味不明であった。


 そんな意味不明なことを、日常的に言うような青年だった。


「どうやって死ぬかを毎日考えているんだ。ほら、例えばあのカーテン、あれを見るたびに、どうやってあれを首に巻き付けて死ぬかを考えるだろう?」


 狂っている。


 異常である。


 早く死にたい?


 だからこそ――


 そうすることで、精神的に疲弊したいから。


 自分を追い詰めるために、就職活動は一切しなかった。


 そうして死にたいと思えるまで、自分を追い込み、追い詰める。


 それが彼の生きる目的なのだそうだ。


 


 そのあまりに無軌道な生存方法に、私はびっくりしてしまった。


 なんという生き方だろう。


 自分より他人を大事にする――自分に厳しい。


 そう一言で表現できてしまう。


 ただ、それを実際に実施している人はいない。


 自分を大切にしなければ、そもそも生きてはいけないからだ。


「な――なんで、そんな風に生きるの?」



 端的な答えだった。


 どうして死にたいのかは、彼は教えてくれなかった。


「ぼくの人生は、まああんまり良いものじゃなかった。自分のために生きることができなかったし、何かに一生懸命になる余裕がなかった。だから最後くらい、誰かの役に立って死にたい」


 真っ直ぐな瞳で、前向きに、そんなことを言われた。


 一体何を返せばいいのだろう。


 自分は駄目だと悲観して、後ろ向きに生きてきた私には、彼のその言葉に何を言えばいいか、分からなかった。


 ふうん、そうなんだ、とだけ返した。


「そんなに、辛い人生だったの?」


「大変だったよ、辛かった、苦しかった。それでも、言い訳をせずに生きてきた」


「…………」


 偉いね、と言おうとして止めた。


 多分、そういう言葉は、彼は求めていなかったと思ったからだ。


莫迦ばかだったよ」


 彼は続けた。


「もっと言い訳、すれば良かった。もっと駄々、捏(こ)ねれば良かった。大人びる必要なんてなくって、子どもらしく居れば良かった。そんな風に思っている。子ども時代に置いてきたものが多すぎてさ、ぼくは大人になることができなかったんだ」


「だから、死ぬの?」


「そうかもしれない」


 答えになっていなかった。


 ただどうしてか、もう少し話していたいという感覚に引っ張られた。


「――死ぬのは、痛いよ」


「そうだね、だからまだ、死ぬことができていないんだと思う」


「――死ぬのは、人に迷惑が掛かるよ」


「うん。それはぼくも思う。自殺は人に迷惑をかける。ほら、ネットのニュースにも鳴っていたじゃない。無差別殺人の犯人に対して、言われる言葉」


 先月、中年で仕事をクビになった男が、さる都内の国鉄主要駅で通り魔殺人を起こすという、凄惨な事件があった。


 逮捕された男は、


『死刑になるためにやった』


『誰でも良かった』


『人を殺せば死ぬことができると思った』


 と供述していて、その強烈かつセンセーショナルな事件に、各種メディアが食いつかない訳がなかった。


 しゃぶりつくすようにその男の過去を暴き、そして家庭環境が劣悪だったこと、小学校、中学校時代にいじめを受けていたこと、性自認が女性であったことなどを散々に書き立てた。その間様々な憶測が飛び交い――その度にネットニュース記事が更新されていた。


 そのコメント欄にて、最も多かった言葉は。



 



 というものであった。


 それを、私はつい思い出した。


 それができたら、苦労はしない。


 一人で勝手に死ねたら、どれだけ良いだろう。


 しかし今の世の中では、生きていることが正しいこととされている。


 どれだけ歪んでいても、苦しくても、辛くても、死にたくても、生きていなければならない。死にたいと思うことそれ自体が間違っていて――それは治療や洗脳によって取り除かれるべき、あってはならない思考だ――と。


 今の世の中は、そうである。


 私も、死にたいと思ったことは何度かある。


 どうして自分が生きているのか――分からなくなったことも確かにある。


 でも――それでも死を行動に移そうとしたことは、一度としてなかった。


 この人は、それをしようとしているのだと、分かった。


「一人で勝手に死ね。確かにその通りだと思う。だからぼくは、一人で勝手に、死のうって思っているんだ。極力人に迷惑を掛けずに――ね」


「――友達が、悲しむよ」


「友達はいないよ。少なくとも僕が死んだとしても、それを悔やむ人間は一人もいないと思う。たとえいたとしても、三日もすれば僕の顔すら忘れるよ。


「――ご両親が、悲しむよ」


「両親には勘当されているんだ。死にたいって言ったら、勘当しろって言われて、勘当された。それだけ」


「――なんで」


 衝撃であった。


 令和の今の世に、まさか勘当という言葉を聞くことになるとは。


「分からない。ただ、二人とも結構良い家柄の人でさ。死にたいと思うことそのものが許されない」


「――許されないって」


 あんまりだと思った。子どもが死にたいと思ったら、


「――病院とかには、行ったの」


「往診歴が付くからって言うんで、大学入るまでは行かせてもらえなかった。だから大学入ってから通院しているけれど、治るまで相当時間が掛かるか、あるいは――治らないって」


 特にどんな病気とは明言されてはいないけれど――恐らく心の病だろうと想像が付いた。


 一度壊れた心は、治らない。


 それは、私も良く知っていた。


 私は壊れることはできず。


 彼は壊れてしまった。


 きっと私と彼の分水嶺は、それだけなのだろう。


 なのに――どうしてだろう。


 彼がこんなにも、遠くに感じる。


「君は、どうして自分が生きているのかって、考えたことはある?」


 そう問われて、私は少しだけ考えた。


「――生きる理由なんて、分かんないよ。ただ――人間が生きているのは、子孫を残すためってことだと、思うけれど」


 気の利いた切り返しをしようとして、失敗した。


 子孫を残す――子どもを作る。


 それが人間の生きている目的なのだとするのなら、私の生存している意味が消失してしまうからだ。


 誰かと恋をし、愛をすることを諦めた私としては。


「でもまあ、それは人間全体の、マクロ的な話だしね」


 と、せめてもの反発をしてみたけれど、何だか自分の意見がブレブレな人間なようになってしまった。


「僕はね、生きている理由なんて、無いんだと思うんだ」


「――無い」


 私は、言葉を反駁はんばくした。


「そう、それを考えること自体が、無意味。だって、親のエゴで生まれているんだもの。僕らはエゴが凝固した塊みたいなものさ。そしてそのエゴは続いていく――生きることは、誰かのエゴなんだ。だから僕は、それから脱したい――」


 

 自由になりたい。



 別に傍点も何も付いていない、ただの一つの言葉だったけれど、どうしてか私には、その言葉が彼の本質のような気がした。


「――死は救済……ってこと?」


「いいや、救いじゃない。死んだらそれで終わりだからね。でも、もううんざりなんだ。誰かの意志と意図の上で、生きているフリをするのなんてさ」


「…………」


 そこから先、何を話したのかはあまり覚えていない。


 すぐにゼミの話に戻ったような気がする。


 それから何もなく、私は卒業した。


 卒業式はコロナウイルスの影響でほとんど集まれず、なあなあの状態で終わった。


 仕事は最初こそ大変だったけれど、少しずつ慣れ始めてきた。


 就職して二か月――だから五月くらいの話であった。


 丁度私が山梨に研修に行っていた時、彼の訃報が舞い込んできた。


 ゼミのグループにて、教授がそれを伝えて下さった。


 親はいないので葬式は行わないらしい。


 悲しかったし、辛かった。


 でも。


 こんなことを、声を大にしては言えないけれど、羨ましいという気持ちが、ないでもなかった。


 いや、憧れだろうか。


 あれだけ真っ直ぐに、自分の意志を貫き通した、彼のことを。


 思うことは沢山あったし、過去にはもっと色々あったはずだ。


 きっとそれは描かれず、写されず、語られない。


 周りの人達の目には、自殺志願の変な奴として映っている。


 私だってそうだった。 


 でも彼は、死にたいのではなく。



 自由になりたかったのだ。



 たった一つの、彼なりの結論だったのだ。


 私にだけ明かしてくれた、彼の本心。


 最後までそれを貫き、そして実行した彼を。


 私はたたえたい。


 それから少しだけ私は、前を向けるようになった。


 結婚してはいけない、愛してはいけない、恋してはいけない。


 自分で縛っておきながら、そんな自分が嫌いだった。


 まあ、簡単に好きになれるはずもない。


 それに、人を好きにならないという気持ちは、変わらない。


 ただ――そんな自分を否定することは、減ったように思う。


 たとえ、誰にも何も伝えられずに死んでしまっても、分かってもらえなくても、やろうとすることが全部裏目に出ても、やることなすこと全てがうまくいかなくても。


 彼の生き方は――私の心の中に、ちゃんと残っていた。 


 暖かいけれど、中心は冷たい。


 少しだけ甘くて、ちょっぴり苦い。


 この気持ちに、名前は付けないでおきたい。




《The Sweeter, the bitterer》 is R.I.P.

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甘々苦々 小狸 @segen_gen

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