もう聖女じゃない

 空からは雨が降っていた。

 全体的に暗く、雨のせいか数年振りに見た町は活気付いていないようにも見えるがそんなことはなかった。仄かな明かりの灯る室内には穏やかな住人の声が響き、街を彩る商店も随分と綺麗に見えた。

 雑貨屋にはかつて魔王を封印した勇者一行の人形があったり、本屋にはその御伽噺が売っていたりする。随分前のことをアリアは少しだけ思い出していた。


(「アリア様っ、街にアリア様をモチーフにした人形があるらしいですよ!とっても可愛いそうです!」)


 ある日シーニャが頬を紅潮させ興奮気味に伝えて来たが、今はそんな人形どこにも見えない。あるのは黒髪を肩の長さで切り揃えた新しい聖女のものだけ。

 アリアは物陰に身を潜め、途中拾ったボロ布を頭から被っていた。雨で視界が悪いといってもアリアの黒髪は目立つ。もし見つかったらと思うと、想像するだけで芯から震えが来る。もうどこに行っても自分の居場所はないのだとアリアは理解していた。


 見つかればきっと冗談ではなく殺される。今穏やかに笑っているこの住人たちも、アリアの姿を見たら目を血走らせて暴力を振るってくるに違いなかった。

 じわりと、ヘドロのような重くて臭い感情が臓腑を染めていく感覚がした。

 これは自分を襲った男に魔力をぶつけた時に持った感情だ。こんなものが自分に生まれるなんて、アリアは思っても見なかった。


「いやあ今日はいい雨だ!」

「この雨なら野菜も育つし、山も生き返るだろうさ」

「新しい聖女様のおかげだなあ!」


 賑やかな声がしてアリアは体を縮こまらせて路地の奥へと身を寄せる。酒を飲んでいるのか声の大きな男たちが楽しそうに話しながら歩いていた。


「本当になぁ。前の聖女は何してやがったんだ。噂じゃあ毎日祈りもせず遊んで暮らしてたらしいぜ」

「オレは男を侍らせてるって聞いた」

「聖女なのに聞いて呆れるわ。ただの淫売いんばいじゃねえか」

「そういやあ前のはどうしたんだろうな。そのまま教会にいんのかね」

「そんなの知るかよ。でももし街に降りてるなんてことがあったらそん時は捕まえてよお、ちょっと味見とかしてえよな」

「ばかおめえ何言ってんだよ」


 どんどん男たちの声が遠くなる。アリアは自分の耳を疑っていた。


(私は遊んでなんかいない。男の人を侍らせたりもしてない。毎日ずっと、ずっと祈ってた!)


 恨まれているのは覚悟していた。けれど、身に覚えのないこんな侮辱するような噂が流れているなんてアリアは知らなかった。心がどんどんどす黒く汚れていく。


「お嬢さん、大丈夫かい?」

「ひっ」


 降ってきた声に身体を跳ねさせた。そして視界に映った上等な軍靴に目を見開いた。


「あー、脅かしてごめんね?とりあえずそこだと風邪引くし、この辺りは浮浪者も出るからさ」

「…大丈夫、です。自分でどうにかします。気にしないで下さい」


 心臓が壊れそうな程脈打っていた、恐怖からだ。この男はきっと王城の関係者に違いない。騎士団の人員が街の警護をしているからその内の一人だろう。もし自分が元聖女だとバレれば、きっと教会に連れ戻される。いや、もしかしたらこの男達に乱暴されるかもしれない。


「いやそうは言ってもそんな震えてるのに放っておくわけには。これも仕事だし、何よりお嬢さん浮浪者じゃないでしょ?肌綺麗だもんね」


 男の目線はアリアのスカートから覗く脛を見ていた。痩せてはいるが細く雨にぬれて生白く光る足は男の何かを刺激したのだろう、値踏みするような視線にアリアはゾッとした。


「ほ、本当に大丈夫ですから」

「いやいや……、あれ、お嬢さん…」


 男はアリアの前でしゃがみ、顔を覗き込んだ。そして、目が合ってしまった。


「っ、あなたは…!」


 男の目が驚愕に見開かれる。


「いやあ!」


 アリアは男を突き飛ばした。すぐに立ち上がって一心不乱に走り始める。


「待て!、お待ちください!」


 男の声が後ろで聞こえる。けれど足を止めるつもりなんてなかった。アリアは入り組んだ路地を奥へ奥へと進んでいく。早く、早く逃げないと。


 ──でも、どこへ逃げるのだろう。


「あっ」


 石につまづいて濡れた地面に倒れ込む。

 丁度水溜りの上に転けてしまったようで全身が泥水で濡れて、いつの間にか被っていたボロ布も無くなってしまっていた。このままだと見つかってしまう。

 けれど、もうアリアには動く気力がなかった。


 逃げたところで、どうせ見つかる。そしたら捕らえられて、またあの教会へ戻される。それかあの男や街の男達の慰み者になるのだろうか。

 目の前が暗くなっていくようだった。

 聖女ではない自分に残った価値は、女であるということだけ。

 あまりにも無様で、滑稽で、笑いが込み上げてきた。


「…っふふ、あは…っ、あはははは!」


 身を粉にして尽くしてきた結果がこれか。

 もうアリアは何もかもがどうでも良かった。

 このまま水のように地面に溶け込めたらどれだけ幸せだろうかと思うのに、そんなことになりはしないのだ。

 ああ、靴の音が聞こえる。あの男だろうか、それとも仲間のものだろうか。どちらにせよアリアの未来は変わらない。


「…もう、疲れた…」


 靴の音が、すぐ側で止まった。


「酷い有様だな。これが元聖女か」


 やけに低い声が聞こえた。元聖女、それが自分を指す言葉だというのをアリアは誰よりも理解していた。

 空からは雨が降り、地面に落ちたそれが跳ね返って土と一緒に頬に張り付き、長い黒髪にも泥水が付着して、おまけに泥水の上に倒れている。確かに酷い有様だろうと歪に口角を上げる。


「…これが俺を愛と勇気だとかいうもので封印した人間の成れの果てか。興味深いな」


 声の主が膝を折ってアリアの顔に張り付いた髪の毛を指で払った。

 その言葉に違和感を感じるのに顔を上げる気にもならずぼうっと地面を見る。連れていくならさっさとすればいいのに、そんな投げやりな思いすら沸いてきた。


「俺と来るか、元聖女」


 理解するのに数秒時間を要した。来るか、そう言ったのだろうかこの男は。


「何故、そんな顔をしているな」


 微かに眉を顰めたアリアを見て男が愉快そうに呟いた。

 泥水の中からアリアは顔を上げ、そして自分を見ている男の姿に目を見開いた。


 まず目についたのは顔の半分を覆う仮面、それとアリアですら目を見張るほどの魔力だった。その魔力は異世界から召喚された聖女の比ではない。これ程までの力を有する人物をアリアは一度だって見たことがなかった。それなのにアリアはこの力を知っていた。


「……憎くはないか、お前を貶めた者全てが。壊したくはないか、その全てを」


 ──力を与えてやろうか。


 蜜を流し込むような甘い囁きにアリアは唇を強く噛んだ。

 アリアはこの力を知っている。血反吐が出る程強く憎んだこの力を、アリアが間違うはずがなかった。

 爪の中に土が食い込むことも厭わずアリアは地面に爪を立てた。

 自分が取るべき行動はただ一つ、この男を滅さなくてはならない。


 ──だけど、なんのため?


 なんのために、アリアはこの男を滅さないとならないのだろう。確実に負けると分かっていて、死ぬと分かっていて、どうして。もう聖女でもないのに。


(嗚呼、そうだ。私はもう聖女じゃない)


 聖女でないのなら、もう、守る必要もない。

 バキン、と最後の欠片が砕けた音がした。

 とうに光など失せたと思われた瞳に淀んだ炎が揺らめいたのを見て、男は一層愉快そうに口元に弧を描き前髪を払った手をそのまま差し伸べた。


「ならば手を取れ。今日からお前は俺の物だ」


 アリアは血の気の引いた真っ白な手を伸ばして迷うことなく男の手を掴んだ。人生で二人目となる男との接触だった。随分冷たい手だった。


「……違う」


 脳裏に浮かぶはかつての情景。穏やかで美しかった、もう二度と手に入らない、入れようとも思わない景色が記憶の中を漂って、そしてそれを真っ黒に塗り潰す。


「…私は、私のものだ」


 元聖女の憎悪に歪んだ顔を見て、男は心底楽しそうに笑って見せた。

 男がその手を引き寄せて腕の中へ細い体を閉じ込めたと同時に二人は消えた。

 街には変わらず雨が降っている。アリアがいた場所にはもう何も残っていなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る