さようなら

 二人の間に沈黙が落ちた。

 黒目が大きく見開かれ、何かを伝えようとして唇が僅かに開くが声が発せられることはなく、その人は血の滲んだ唇で柔らかく微笑んだ。

 ダメだとシーニャは本能で悟った。

 今動かないと、この人は消えてしまう。

 そうわかっているのに、身体がその場に縫いとめられたかのように動かない。声すら、出なかった。


「さようなら」


 何度も聞いてきた、焦がれてきた声で、一番聞きたくなかった言葉を言って、その人は去ってしまった。翻った黒髪が華奢な身体がどんどん遠くなる。

 シーニャは動けなかった。

 全身から力が抜けて膝から葛折れる。ばくばくと心臓が破裂しそうな程脈打っていて、呼吸は荒くなる。今自分が見たものが信じられなかった。信じたくなかった。

 けれど脈打つ鼓動が、張り裂けそうに痛む胸が真実なのだと突き付けてくる。

 随分痩せていた、顔色が悪かった、髪が乱れていた、殴られた痕があった、服が、乱れていた。使用人の服だった。


「そんな…」


 ようやく絞り出せた声はあまりにも小さくて、身体中を駆け巡る感情を堪えるように握られた拳は白くなっていた。

 なんで、どうして、そんな疑問が脳内を埋め尽くす中で、冷静な部分が冷酷に淡々と耳元で囁く。


 ──わかっていたでしょう?幾らでも予想は出来たはずよ?


 ヒュ、と喉が鳴った。

 そうだ、シーニャには今の状況来ることを心のどこかでわかっていた。けれど、そんなことになるはずはないと思い込んでいたのだ。だってアリアは「聖女」だから。いくら力が弱まったとしても、それまでの功績は絶対に評価される。だからシーニャのおぞましい想像が作り上げた事態になるわけがない。そう、思い込んでいた。


 だが実際は違った。シーニャは知っていた。アリアがどれだけ教会の上層部から疎まれているか、そのことを察知した教会を嫌う輩がアリアの悪い噂を吹聴していたか、そしてその噂を鵜呑みにした民衆がアリアをどれほど恨んでいるか、シーニャは知っていた。


 その全ての矛先が向かなかったのはアリアが聖女のままだったからだ。

 どれだけ力が弱くてもこの世界に聖女はアリア一人だけだったから、みんなアリアを大事にするしかなかった。けれどもう、アリアは聖女じゃない。

 そんな彼女を待ち受ける未来なんて、想像したらわかるのに…!


「…アリア様…っ」


 シーニャは立ち上がり、アリアが消えた方へと走り出した。

 きっともう追い付かない。追い付いたところで自分にできることなんて何もない、けれどシーニャは走らずにはいられなかった。

 誰が何と言おうとシーニャにとっての聖女は昔も今もアリア唯一人だ。


「アリアさま」


 アリアが向かった先はまだ二人が幼かった時に見つけた秘密の抜け穴だ。強固な守りを誇る教会の外壁、茂みに隠れたその場所に人が通れる穴があることを二人は知っていた。そこから偶に動物が入ってきて餌を恵んで貰っているのを知っていたから、二人はそれを秘密にしようと約束した。

 そんな思い出が沢山ある。アリアが誰よりも優しく、そして傷付きやすいことをシーニャは誰よりも知っていた。そんなアリアがこの数ヶ月間をどんな風に過ごし、どんな心ない扱いを受けて来たのかを思うとシーニャの目からは涙が溢れた。


 流れる涙を手の甲で強引に拭い、息を切らしながら走った先でシーニャは足を止めた。

 茂みの中を進んで、穴のある場所を見てシーニャは再び座り込んだ。

 真新しい枝が折れた場所がある、誰かが外に出た形跡がある。動物かもしれないが、きっとアリアだとシーニャは確信していた。


「……アリア様…」


 自然と祈るように両手を組もうとして、やめた。

 この世に神も何もいるものかと、いるのならどうしてアリアをこんな目に合わせるのだと、目の前に神がいるなら掴み掛かってやりたい気持ちだった。

 けれどシーニャはもう一度手を組んで、そっと祈った。


「どうか、どうかアリア様が…っ」


 誰よりも優しくて、気高くて、何でも一人で抱え込んでしまうあの人が。


「…無事で、幸せになりますように…」


 泣く資格なんてないのにアリアを思うだけで勝手に涙が溢れてくる。こんなことしかできない自分の無力さが情けなくてしょうがなかった。

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