対比

 食糧庫から外に出た時、周りには誰もいなかった。

 きっとそれなりの時間が経ってから戻って来て鍵を開ける手筈だったのだろうと考えてアリアは外へと向けて歩みを進めた。

 ただ漠然と「もうここにはいられない」と思った。だがアリアには身を寄せるような場所がない。八歳の時教会にやって来て、もう故郷への道など忘れてしまった。もし戻れたとしてもどんな扱いを受けるかは想像に難くない。


(「みーんな言ってるぜ、あんたがいなくなって良かったって」))


 男の声が頭の中で響いて頭を振る。


(精一杯、やったのに…!)


 気付けばアリアは走り出していた。走りながらこれからのことを考えようとするが、あの男の言う通り自分を快く受け入れてくれる場所なんて世界中のどこにもないのだろうと頭の中の冷静な自分が告げてきてアリアは唸った。

 幼い頃から今まで、アリアは世界の為に全てを捧げてきた。年頃の娘がするようなことにも人並みに興味があった。友人も作りたかったし、気兼ねなく街へ遊びにも行きたかったし、恋もしたかった。


 けれどそれら全てを捨てて、アリアは祈っていた。世界が平和であるように、魔物の脅威に晒されないように、毎日気が遠くなるほど祈り続けていたのに。


 ──こんなの、あんまりだ。


「聖女様、そちらではありません」


 優しい低音に足が止まり反射で声のした方へと顔を向ける。いつの間にか以前自分が住んでいた場所にまできてしまっていたようだった。


「えー、あたしまた場所間違えたの!?」

「聖女様は少し道を覚えるのが苦手ですからね」

「それ、あたしが方向音痴だって言ってるよね?」

「そういうところも素敵なところだと思いますっ」

「あー、シーニャちゃんマジで全肯定じゃん助かるー!そうだよね、こういうとこもあたしのチャームポイントだよねーっ」


 その人がいるところだけ花が咲き誇っているようだった。暖かい日だまりのようで、離れているにも関わらずその魔力の輝きがアリアを焦がす。


「あ、そうだ!今度さー、三人で街行こうよ!トリアトさんからも許可貰ってるんだ~。なんかめちゃくちゃ美味しいお菓子屋さんあるんでしょ?ね、コンラッド!」


 銀髪の騎士、コンラッドが柔らかく微笑んだ。


「はい、とても美味しいと評判の店ですよ。きっと聖女様も気に入って下さるかと」


 ぱらぱらと破片がこぼれ落ちていくような感覚がする。


(どうして…?)


 アリアは三人から隠れるように物陰に身を潜めて両手で口を覆う。


(……それは、私との約束だった筈なのに)


 心臓が痛いほど脈打っていて、視界が涙で滲む。

 歯を食いしばって嗚咽が漏れないように堪えるが涙は止まってはくれず口を覆う手を濡らす。今すぐ叫び出したい程の衝動が突き上げるのに、こんな惨めな姿を誰にも見せたくなくてアリアは必死で堪える。

 酷く惨めだった。

 服は乱れ、肌はくすんでボロボロで、かつて聖女として存在していた頃の面影なんて黒髪と黒目以外は無いに等しい。その黒でさえ、今は忌々しい。


 けれどアリアは一度だって髪を切ろうと考えたことはなかった。短くすれば隠す手段なんていくらでもあったのに、アリアにはそれが出来なかった。

 だってそれが、唯一自分が聖女であるという証だったから。

 アリアは泣きながら笑う。自らを嘲るように口端を歪に上げた。

 誰よりも聖女であることに固執していたのはアリアだった。


 音を立てないように慎重に立ち上がって、アリアは逃げるようにその場を後にした。これ以上惨めな思いはしたくない、その一心でアリアは走り出した。

 そんなアリアが去った方向を、驚愕の目で見つめる人が一人。


「……申し訳ありません、急用を思い出しました。御前を失礼してもよろしいでしょうか?」

「全然いいよ!てか急用とかヤバいじゃん!早くいきなーっ、案内はコンラッドにしてもらうからさ」

「ありがとうございますっ」


 一礼してからその場を離れて歩き出す。今すぐにでも走り出したいのに、それができないことがもどかしくて仕方がない。

 シーニャは己の目を疑っていた。けれど自分が見間違える筈がないと胸を張って言える。


(あの黒髪は…)


 毎日あの髪に櫛を通していたのは自分だ。自分だけの特権だった。あの髪に触れるのが好きだった。綺麗だと伝えると照れたように微笑んで「シーニャのおかげよ」と言ってくれるその人が。シーニャは今でも大好きだ。

 二人から十分に離れてからシーニャは長い裾を持ち上げて走り出す。

 早く、早く走らなくては、そうでないと見失ってしまう。


「アリア様…っ!」


 どうしても伝えたいことがあった。シーニャは元気だと、新しい聖女様は優しく気さくで、シーニャにはわからないが魔力も強く世界は平和に近づいていると、もうあなたが無理をしなくて良いのだと、あなたのことが大好きだと、自分を聖女付きの侍女として育ててくれてありがとうと、上げたらキリがないほど伝えたいことがあった。

 息を切らして走っているとようやくその背中に追いついて、シーニャは大きな声で呼んだ。感動に打ち震える声で、瞳に涙をいっぱいに溜めて、けれどアリアが好きだといってくれた笑顔で。


「っ、アリア様!!」


 シーニャは「もう、女の子がそんなはしたない格好してはダメよ」とあの優しい表情と声が返ってくるものだと信じて疑っていなかった。

 だがその声に立ち止まり振り返ったアリアを見て、シーニャから表情が抜け落ちた。


「……ぇ…?」

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