第二章

残酷で平和な日々

 アリアが消えたという話はその名前の一文字すらも話題に上がらなかった。そもそもアリアが聖女でなくなったあの日から彼女に関する話題は禁忌のような扱いになっていた。特に新しい聖女の周りでは。ほんの少し、雰囲気でもその話題が出ようものならそれを口にした人間は厳しく罰せられ、次の日から教会で姿を見ることはなくなる。それくらいの行き過ぎた管理が徹底されていた。だから今も、元々アリアという存在は元からいなかったのではと思う程、日々は残酷にも平和に過ぎていく。


 異世界の聖女マツリによって今国どころか世界中が平和になっているらしい。

 らしい、と曖昧な言い方になってしまうのはシーニャが教会からほとんど外に出ないからだ。だから外の状況は人伝でないと分からないし、知ろうとも思わなかった。


(最初の頃はアリア様に知らせるためによく聞いて回ってたっけ…)


 アリアと共に過ごしていた、まだ互いに幼かった頃。アリアの力で生活が豊かになった人達の話を聞くのがシーニャの趣味だった。そしてそれをアリアに報告して、嬉しそうな笑顔を見るのが好きだった。

 けれどそれもアリアの力が弱まってからやめてしまったけれど。


 シーニャは息を吐いた。現在シーニャは祈りの間の外にいる。この部屋に入れるのは聖職者と聖女を守る護衛騎士、あとは王族くらいである。だからシーニャは祈りの時間が終わるまで外で待っていた。

 だが今日はいつもと違うことがある。

 固く閉ざされた門の前にコンラッドがいるのだ。


 聖女付きの護衛騎士であるコンラッドはいつ何があっても対応できるように常に聖女の側にいるはずの存在だ。それがなぜ今日は門の外にいるのかシーニャには分からなかったが彼女にとってそれは都合の良いことだった。


「どうかされましたか」


 タイミングを伺って何度か視線を送っていたからだろう、コンラッドから声を掛けられてシーニャは肩を跳ねさせた。


「…今日は、何故外で待ってらっしゃるのかなと、思いまして」

「…ああ」


 コンラッドの顔は無表情だった。シーニャはこの男が得意ではない。寧ろ嫌いだと言ってもいいかもしれない程には苦手だが、彼の有能さは知っているつもりだった。聖女以外には全く表情を変えない男はじっと前を見たまま口を開く。


「…今代聖女様は私が見張らずとも無理をされないので」


 シーニャは息を呑んだ。

 聞きたかった人の話題を、けれどどう切り出したらいいか散々悩んでいた話題をコンラッドの方から出されて少し混乱もした。だがこの機を逃す訳にはいかないと今度は顔も横に向けた。相変わらずコンラッドは前だけを見ている。


「アリア様のこと、どう思ってるんですか?」

「…どう、とは」

「色々あるでしょう?どうして急に聖女様じゃなくなったとか、その後の処遇は誰が決めたとか、誰が異世界から人を召喚しようなんて言い出したとか、色々」


 コンラッドがようやく視線をシーニャに向けた。その全てを切り捨てんばかりの冷たい目に心臓がヒヤリとするが目を逸らさなかった。シーニャは知りたかったのだ、なぜ急にアリアの運命がこんなにも変わってしまったのか、その原因を。

 知っても何も出来ないけれど、でも知りたかった。

 それにこの男なら何か知っていると思ったのだ。誰よりもアリアの側にいて、憎からずアリアのことを想っているであろうことも見てとれたこの男なら、自分が知りたい情報を知っているのではと期待していた。


「私です」


 淡々とした声が響いた。


「新たな聖女様を異世界から召喚した方がいいと神官長様に進言したのは私です」


 シーニャの目が限界まで見開かれた。驚きのあまり絶句する彼女を置いてコンラッドは言葉を続ける。


「聖女様は二人も必要ないと判断された陛下が先代様の任を解かれ、その後の処遇は神官長様に一任されたと聞いています。私が知っているのはこれくらいですね」

「ど、して…?」


 信じられなかった。他の誰でもない、この男がアリアの運命を狂わせたというのか。


「なんでそんなこと!」

「限界だと判断したからです」


 嫌になる程冷静な声が怖いくらいに響いた。


「…あの方は私やあなたがどれだけやめろと言っても祈ることをやめなかった。日毎に衰弱し、このままでは間違いなく死んでしまうと判断したので新たな聖女様を用意する方法を教会に提示しました。まさかこれ程性急に行われるとは思っていませんでしたが」


 シーニャは言葉に詰まった。確かにコンラッドの言う通り、アリアは日々魔力切れを起こす程祈り続け血を吐いたことだってある。その度に必死に笑って「大丈夫」というアリアの姿をシーニャは何度も見てきた。だから限界だという言葉にも深く納得できてしまった。


「だ、だけど…っ、だけどアリア様は…!」


 頭では理解できても、心が追いつかない。目に焼き付いて離れないアリアの最後の笑みがシーニャの首を真綿で絞めるようだった。


「…あの方がどうかされたのですか?」


 少しだけ変わった声色にシーニャの中で少しだけ怒りの感情が湧いた。お門違いだと分かっているし、コンラッドに言って何か変わるわけでもないのに口が動いていた。


「アリア様は、もういません」

「それは」


 どういうことだと続こうとした声を遮る。


「聖女ではなくなったアリア様は酷い扱いを受けていたんだと思います。顔を、お顔を殴られたあともありました。すごく痩せて、全身ぼろぼろで…っ」


 思い出すだけで鼻の奥が痛んで目が熱くなる。けれど泣く権利なんてないと上を向いて何度も呼吸してこぼれそうになる涙を我慢し、俯いた。


「どうしてアリア様があんな目にあわないといけないの…?」


 小さな声はしんと静まった空間の中ではよく響く。「もういないんです」と繰り返した声にコンラッドは何も言わなかった。それから十数秒と掛からず頑強な門が開く音がしてシーニャは顔を上げた。その顔に悲しみの色はない。


「終わったよー!毎回思うけどさ、あたしのあれで本当に世界平和になってんの?全然実感ないんだよねー」


 門を両手で押し開いて出てきた少女はアリアと違ってよく喋り、表情をくるくると変える可愛らしい人だった。話を聞くと年齢は十七とそう変わらず、けれどその無邪気さがこの人が平和に幸せに暮らしてきたことを物語る。シーニャは決してマツリを嫌ってはいなかった。何故なら彼女もまた被害者なのだから。

 自分が預かり知らぬ所で一人の女性を窮地に追いやり、そして自分はそれを知らず穏やかに暮らす。その立場が一人の人間の犠牲の上に成り立っていると分かったとき、この少女はなんと思うのだろうか。無意識のうちに被害者にも加害者になっているこの少女が哀れだともシーニャは思った。


「…聖女様のお力で平和が保たれているんですよ。現状維持って素晴らしいと思います」


 シーニャがそういうとマツリは照れ臭そうに笑った。年相応の眩しい笑顔だと思った。


「えへへー、あたしのおかげかー。そう言われるともっと頑張ろーって思うよね。…え、コンラッドどうしたの。めちゃくちゃ顔色悪いじゃん、二日酔い?」

「いえ、問題ありません。お部屋に戻りましょう、聖女様」


 コンラッドの顔色は確かに悪かった。血の気が引いたその色に、シーニャの心がずきりと痛んだ。ああ、この男も知らなかったのか。

 三人はゆっくりと歩き出した。アリアがいた時は主にシーニャが喋っていてアリアとコンラッドが相槌を打ってくれるような関係だった。けれど今はマツリが賑やかに喋り、それに二人が相槌を打つ。

 聖女ですら代わりがいるとまざまざ見せつけるこの光景は残酷だった。

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