【5-04】再戦、奏とバルドー帝


◆◇◆◇◆◇


 ――――――――……………………


 皇帝バルドーにとって、今夜は心待ちでもあり、同時に気が重い夜だった。

 今日は日中の執務もとどこおりがちで、我ながらあきれるほどに身が入らなかった。

 その心境は、今こうして『彼女』が居る座敷牢に向かう途中でも変わらない。


透歌とうかよ…………やはりヌシも、ワシを認めぬというのか……」


 心待ちの正体は、ずっと手を出さずにいた透歌とうかの体を好きに出来る喜び。

 気が重い理由は、ずっと尊重してきた透歌とうかの心を、ついに得られなかった悲しみ。


「なぜだ、なぜ認めぬ。ワシは皇帝、あらゆる富と権力と名誉を極めた者なのに」


 宮廷を退き、後宮に向かう自分の足取りも、軽いようで重いようで。

 複雑な心中の霧を払えないまま、バルドーは離れの屋敷へと足を運んでいく。


「皇帝になれば……誰もがワシを認める……従ってくれる……」


 途中で足を止めると、夜空の星を見上げてつぶやく。


「皇帝になれば、父上も母上も弟も妹も、ワシを認めてくれる……ワシは決して愚かではないと。ワシは強く優れていて、皇帝にふさわしいと、分かってくれる……」


 バルドー帝は後宮に入るときも常に帯刀たいとうし、決して供を連れ歩かない。

 それは皇帝である自分が、同時に武芸に秀でた最強の戦士だと信じているからだ。

 自分は最強ゆえ供など無用の足手まとい――というのが、彼の信念だった。


「ワシを認めろ……透歌とうか、ヌシもだ……皇帝を認めないなど、あり得ぬ……」


 自分は最強で、護衛など必要無い。だから至高の座がふさわしい。

 それこそがバルドーの信念であり、思想であり、矜持きょうじ

 だからこそ彼は、自分の矜持きょうじを傷つける者を許さない。


「ヌシだけはワシを心から認めてくれたはずなのに、なのに裏切るというなら」


 そう。その原則は瑞原透歌とうかであろうと、例外ではない。

 漁色家ぎょしょくかのバルドーが透歌とうかにだけは指一本ふれなかったのは、彼女が本当の味方と信じていたから。

 その彼女が自分を裏切り、『偉大な皇帝バルドー』に逆らうなら、許せはしない。


「ならばワシの偉大さを、その身をもって知るが良い……!」


 バルドー帝は暗い決意を眼に灯しながら、透歌とうかを閉じ込めた牢に到着した。

 目的の牢の中では瑞原透歌とうかが一人うつむき、神妙に座っている。

 薄暗い牢の灯りが、彼女の側に置かれたユズの実を、静かに照らし出す。


透歌とうかよ、覚悟は良いか。今宵こよいはこれまで触れなかった分、楽しませてもらうぞ」


 バルドー帝はそう宣言すると、もっていたカギで牢の錠を開ける。

 カギを開けると皇帝は太った腕を伸ばし、透歌とうかを乱暴に引きずり出そうとした。


「さあ、出ろ。それとも今になって臆し――?」


 しかしバルドー帝の腕が透歌とうかに触れた、その直後だった。

 透歌とうかの周りに奇妙な呪文が現れたかと思うと、それがサッと一巡した。


「ぐおッ……!」


 咄嗟とっさに皇帝が腕を引いた瞬間、ぱっと朱色のはなたたみ飛沫しぶいた。

 罪人を閉じ込めていた木の格子こうしも砕け、透歌とうかが牢の外へと歩み出る。

 バルドー帝は腕を押さえながら数歩後ずさり、憤怒の形相をみなぎらせた。


「ワシに逆らうというのか、透歌とうかよ!」

「いいえ、逆らうのは瑞原透歌とうかではありません」


 文字鎖を周りに張り巡らせながら、『透歌とうか』が答える。

 しかし牢から現れた彼女の姿は、明らかに『瑞原透歌とうか』とは違っていた。

 透歌とうかより短い黒髪に、道化の仮面を被った異様な顔貌がんぼう

 その異様な姿に気づいたバルドー帝が、驚愕で大きく眼を見開く。


「ヌシは、いったい何者だ!」

「逆らうのは、この私! 瑞原透歌とうかの妹――瑞原かなでが、あなたの罪を断罪する!」


 道化の少女はそう言うと、『逆ツ風』の文字鎖に皇帝を襲わせた。

 急襲を仕掛けられた皇帝が反射的に抜刀し、襲撃する文字鎖をはじき飛ばす。

 ギィン、と耳障りな金属音がして。

 よろめいた皇帝が、また数歩後ずさった。


「ぬう、昨夜の亡霊娘か! 庭園を彷徨さまように飽き足らず、我が後宮を荒らすか!」

「ならどうする皇帝! 不様ぶざまに女官を呼び、おのれが弱さの救いを求めるか!」

「笑わせるな! ワシは最強の武人、ひ弱な女なんぞの助けなどるものか!」


 皇帝は叫ぶと、左の前腕を自分の前にかざした。


竜咒共界りゅうじゅきょうかい、出でい暴虐のリート! 世上荒三位せじょうあらさんみ撲殺明理ぼくさつめいり『終わりの破離拳はりけん』!」


 その詠唱に呼応するかのように、皇帝の周りにも文字鎖が現れる。

 しかし二重螺旋らせんの形を描く黒色の鎖は、しかし所々ところどころほころびが生じていた。

 その欠落を見たかなでが、思惑通りとばかりに笑う。


「ははは。陛下よ、文字鎖を呼ぶ前に、己の腕をよく見てはいかがかな?」


 かなでに言われたバルドー帝が、自らの前腕を確かめる。

 皇帝の腕は朱に染まり、召喚に対応して浮き出た呪文が読めない状態だった。


「なんと、まさか」

「そう。先ほどの私の奇襲で、あなたの呪文に傷がついたのです。もはや陛下の文字鎖は、マトモに戦いの役には立ちませぬぞ!」


 かなでの言葉どおり、バルドー帝の文字鎖は挙動が怪しかった。

 呪文が欠け、動きがぎこちなく、明らかにかなでの文字鎖と違いがあった。


「ぬぬう、小賢しいマネをしおって!」

「ご理解いただけたなら、覚悟なされよ。今夜ここに、あなたの味方は居ない」


 冷然と告げるかなで。しかしバルドー帝は屈する様子を見せない。

 皇帝は憤怒でギラついた眼で、真っ向から道化の少女を見据えると。


「ふん! ワシには、この剣あれば十分よ! 76戦無敗の我が一撃を思い知れ!」


 そう声高こわだかに叫ぶと、相対する道化の少女に斬りかかった。

 しかしかなでは迫り来る斬撃をギリギリまで引きつけると――。


「はっ!」


 ……なんと、いとも容易く避けてしまった。

 渾身こんしんの一撃をかわされたバルドー帝が、またしても驚愕の表情をする。


「なんだとう!? 常勝無敗の我が究極の一撃を、こうも簡単にけるとは」


 意外そうに戸惑うバルドー帝を眺めながら、奏は冷たく笑った。


「陛下。その常勝無敗とは、いつの話ですかな。少なくとも今の一撃でほふれる戦士など、戦場に居るとは思いませんが」


 冷笑されたバルドー帝が、信じられないといった顔で喚く。


「バカな。このバルドー・バルバロイ・シュゼン、戦場には立たずとも、近衛の兵と手合わせしておるわ! いまだかつて負けたことなどない!」


 しかし反論するバルドー帝を憐れむように、奏は告げた。


「……それはきっと、近衛兵が手加減していたのではないですかな。陛下の無意味に肥大したプライドを傷つけぬよう、陛下の経歴を汚さぬように」

「な、な、な……!」


 怒りで頭まで紅潮させるバルドーとは対照的に、かなではどこまでも冷たい。


「裸の王様とは良く言ったものです。陛下はとっくに老いて肥え脆弱ぜいじゃくになったのに、周りの者は嘘ばかりで、陛下に真実を教えてくれなかったのですな」

「そんなはずは、無いぃぃぃぃッッ!」


 再び斬りつけるバルドー帝。

 しかし肥満して贅肉ぜいにくだらけの肉体から繰り出される剣技は、とても鈍重どんじゅう緩慢かんまんで。

 またしてもかなでは、その攻撃を簡単にけてしまった。


あわれむべし皇帝バルドー。過去の栄光と嘘の称賛で、自分を見失った愚か者よ」


 道化の少女はそう言うと、指先をしならせて皇帝を指さした。

 その動きに対応するように、二重の文字鎖が二匹のヘビのように鎌首をもたげる。


「あなたが最後に得る栄光は――――贖罪しょくざいという名の死のみと知れ!」


 直後、猛烈な勢いで文字鎖がバルドー帝に襲いかかり、その剣をはじき飛ばした。

 そのまま文字鎖は皇帝に殺到するが、皇帝の文字鎖が反応し、攻撃を跳ね返す。

 攻撃を防いだことで落ち着きを取り戻したように、皇帝が笑った。


「ぐふふ、ならばワシの『暴虐ぼうぎゃくのリート』で、ヌシの文字鎖を犯してくれよう」


 まだバルドー帝の文字鎖が機能することを見て、かなでも薄く笑った。


「よろしい。ならば、どちらが真に愚者か、決着を付けようではありませんか!」

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