第35話

『奏っていうのか、いい名前だな。俺の妹みたいな奴も、束ねた音って名前なんだ。似てるだろ?』


 中学生に進学してから一度も会わなくなった後輩。

 奏は俺にとって、お喋りしやすい女の子だった。

 彼女の苗字が「丹羽」だったなんて、今初めて知った。


「あなたに出会う前から奏はずっと……虐められていたんです」

「なんだって……?」


 そんな話、聞いたことがない。

 彼女はいつも元気が良くて、笑っていた。

 そんな素振りなかった。


「気付きませんよね。私だって、気付きませんでした。奏は本当に嘘吐きなんです」


 そう言われても、信じられない。

 奏が……?

 俺には何も相談してくれなかった。


「それでも、奏はあなたに救われていました」

「俺は何も――」

「奏のことを『ばか』って呼ぶ女子を追い払ったことが、あるんじゃありませんか?」

「……あった気がする」


 奏ではなくその周囲には違和感があった。

 思い返せば、本当に虐めはあったのかもしれない。


「虐めの原因は、名前が『たんばかなで』だから、間の単語を切り取って『ばか』だって揶揄われたことでした。そんな虐めっ子を追い払ったあなたに、救われたみたいで」


 それは……丹羽さんにも当てはまることだから、こんなにも苦しそうなのだろう。

 「たんばかの」という名前から、奏ではなく姉である自分がそうなってもおかしくなかったこと。

 それ故の後悔が――。


「本当はっ……私が気付くべきだったんです。お姉ちゃんですし、何より奏は……私のこの瞳を褒めてくれた子だったのに――」


 丹羽さんの……アメジストのような紫色の瞳。

 確かに幼い子供の時には、誰かに揶揄されたことがあったのかもしれない。


「なのにあの日まで、誰も気付かなかったんです」

「――ある日って?」

「あなたが小学校を卒業した日ですよ」


 そこで俺が出てくるのか。

 しかし卒業した日とどう関わりがあるのだろうか。


「本当は……奏は虐めをキッカケに、もっと前から転校するつもりだったんです。そうしなかった理由もあなただったので――それで、今は親戚の元で暮らしています」

「そう……だったのか」


 中学に上がってから会えなかったのは、引っ越していたかららしい。

 一報はほしかったが……いや、丹羽さんがその代わりなのかもな。


「だから、知っていたのですよ……あなたが、言伝で聞いた話よりも、見たままの事実を信じる人だってことを」


 確かに、噂をそのまま信じることは少ない。

 自分の目で確かめて、人を見たい。

 そう思っていた。

 しかし……実際には束音の好きな相手を確かめなかったりと、抜けている自覚はある。

 なので、あまり自信はない。


「だから……私がビッチだって噂を流したんです。男を寄せ付けず、あなたに近づく為に」

「そんなことしなくたって――」

「高校で出会ったあなたの隣には、束音さんがいました。一筋縄でいくなんて、思ってませんでしたよ」


 だから、色々手を回したと?

 ビッチだって噂は必要だったのかな。

 まあ……元々黒い噂がある方が、変な虫は付かないだろうけど、そういう牽制だったのか。


「如月くんにも協力してもらって、少しずつあなたのことを知っていきました」

「待て……周太だと?」

「はい。以前、彼とこっそり話し合う際、学校の生徒に見られた時は焦りました。咄嗟に彼が告白してくれて助かりましたけど」


 そういえば、周太が振られた話は幾らでも聞いたことがあったのに、丹羽さんの時だけはやけに口数が多かった。

 学園一位と交際するという話だって、周太から聞いた話……つまり――?


「あの時は束音さんが告白の準備をしていると聞いて、急いで計画を立てたんですよ。間一髪でした」


 俺達のグループに裏切り者がいた。

 周太……あいつが、束音の好きな相手が俺だと知って、情報を売ったのだ。


「そういった訳で、ずっとあなたのことを知っていました。ずっと……気になっていたんです。それは恋をしていた訳じゃありませんでしたけど」

「それでも俺に近づきたかったのは、奏が理由か?」

「キッカケはそうです。でも、気が付けば目が離せなくなって……あなたと関わってからは、日々惹かれていきました」


 そうか――丹羽さんは、俺を知ろうとしてくれていたのか。

 理解者になってくれようと、していたのだ。


「果乃は……果乃なりに頑張ってくれていたんだな。気付かなくて、ごめん」

「いいんです。束音さんに惹かれていることは、気付いていましたから」


 俺自身が自覚したのは、つい最近なんだけどな。


 概ね、丹羽さんのことを知ることができたと思う。

 元から俺のことを知っていたこと。

 周太と裏で繋がっていたこと。

 それらの情報が繋がって、腑に落ちた。


 ただ、束音に申し訳ないから意識しないように心のどこかで制限していたのかもしれない。

 ちゃんと、俺は彼女に――果乃に惹かれている。

 今はこんなに、彼女のことを知りたいと思っている。


「俺も……果乃の事を好きなのかもしれない」

「でも束音さんほどではない……ですか」

「……果乃を悲しませるようで、その言葉を俺の口からは言い難い」

「そう案じてくれるなら、充分好意を感じる事ができますよ」


 それは、無意識な台詞だった。

 反射的に言ってしまった事に、ちゃんと気持ちが込められていた。

 不思議と嫌じゃない。

 ずっと束音以外を意識する事を自分から拒絶していたのに、悪くない。

 そうだよな、好きって感情が本来……悪い感情なはずないのだから。


 ――でも、待ってくれ。

 それなら、束音は丹羽さんの想いを知っていて俺をけしかけたのか?

 それは、どういうことだよ。

 丹羽さんは、束音の代わりにならない。

 過去にはそうしようとしたこともあったけど、無理なことだ。


「とにかく、私の気持ちは覚えておいてくださいね」

「え、それだけ……なのか?」


 俺から話を始めたことだ。

 けど、衝撃的な事実を前にして何もないことに違和感を覚えてしまった。

 女の子が好意を告白して、次は?

 付き合う事だろうか……それは、もぅしているか。


「何かを期待していたんですか? もう、私たちは彼氏彼女の関係ですよ」

「それは、偽の関係じゃ……」


 あくまで、そこは訂正したかった。

 今はこのまま丹羽さんに溺れそうで――どうにか耐えている状態だから。


 本当の関係は――俺が丹羽さんの彼氏になった時の条件、目的を果たしてからの話になる。


「そうですね。予定通り、期間が過ぎれば別れましょう」

「……は?」

「残念ですか? ――その反応はちょっとだけ、嬉しくなってしまいますね」


 からかっているのだろうか。

 でも、今すぐ決めなければならないことでないことを知って安心してしまう。

 安心と同時に、はにかんで笑う丹羽さんのことがかわいいと思ってしまった。



 話はそこで終わり、午後は買い物をした。

 ただの買い物。

 それでも一度意識してしまうと丹羽さんの挙動が一つ一つ目に焼き付く。


 ――狡いなぁ。

 俺は、失うと判っている彼女への愛情を育んでいるのだろう?

 終わりを示すが如く、別れ際に丹羽さんは告げた。


「明日、父に会ってもらっていいですか?」


 そういえば、明日だったな。

 宣告が心を揺らし、また俺を苦しめる。

 でも、丹羽さん――果乃が俺の勇気を信じるというのなら、きっと立ち向かわなければいけない終点なのだろう。


「わかった。それで、事情を教えてくれるのか?」

「あっ、それはですね。何と言いますか、ええ困っているんですけど、私のためと言って歯止めが利かないところですか、ね」

「え?」

「とにかく、会ってもらえればわかります」

「それなら、わかった」


 果乃のおどけた言葉に対して、俺の心持ちは重くなった。

 それでも了承した。


 またアンビバレントな感情に苛まれて、明暗の不明瞭な声音だったかもしれない。

 永遠に今の関係が停滞していればいいのに。

 ――果乃がいるから。

 早くこの関係を終わらせなければいけない。

 ――束音が待っているから。


 この恋愛にどういった終止符を打てばいいのか。

 この時――静かに、一つの覚悟を胸に秘めた。

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