第17羽 タイプヌル
ハイヒールの音が僕の下に駆け寄ってくる。
僕の右腕を引っ張りゴムバンドらしきもので上腕を締め付けた。
僕はただいま素っ裸なので袖をまくる必要もない。
「トウタくん、採血を行うわね」
「ちょ、ちょっと待ってください。心の準備が……」
言ってる間にチクッと腕に疼痛が走り、血を抜かれる感触を味わう。
「採血はいいですけど……輸血はちょっと……」
『そうよ。トウくん、サタンの言うことに従っては駄目』
僕はどもりながら言う。
「他になにか違う方法は……」
「そんな悠長に迷っている時間はないわ」
「わ、わかってます。でも……」
冷や汗を垂らして言い淀んでいると、僕は内臓から突き上げるような悪心に襲われてカハッと吐いてしまった。
「吐血もしてるのにこのままではあなたの命が危ういのよ?」
どうやら
僕の心臓製の血時計が刻一刻、1ミリリットルずつ生命の終わりを告げている。
なのに、なぜ生きることに抵抗するのか自分でもわからない。
「じゃあ血液型の同定をするわね」
あれよあれよという迅速な手際で輸血を強行しようとする女性だったが、さらにどこからともなくもうひとつの別の透明感のある声がそれを制止した。
「アンナ、駄目」
ん?
今アンナと言ったか?
その名前を聞いて僕はすぐにピンときた。
やけに聞き覚えのある声だと思ったら。
そういえば彼女は医師免許も持っているんだっけ。
僕は口の中で呟く。
「アンナ……銀杏ノ宮杏奈」
「チッ」
なぜか舌打ちしてからアンナさんは制止した声に疑問を投げかける。
「どういうつもり? マユハ」
マユハはあのマユハなのだろう。
ということは銀杏ノ宮の長女と末妹がいま僕の目の前にいるのか。
なぜか対立しているようだし。
というかならどうしてアンナさんは僕に輸血を試みようとしたのだろう。
天の川教会では輸血は自由恋愛と同等の禁忌のはずだ。
そしてアンナさんは輸血を止める側の人間のはずである。
何が起こっているんだ?
するとマユハは何の脈絡もなく言う。
「父に決めさせて」
「「チチ?」」
僕とアンナさんはハモった。
チチってなんだ?
父?
乳?
血血?
マユハの言っているのが父親のチチなのだとすれば、教祖の末娘に僕は父などと言われる筋合いはないはずだけど……。
マユハの父親は教祖のギンナンを指すはずであり僕とは赤の他人のはずだ。
そもそも赤って何色だっけ?
あれ?
頭に血が回っていかない。
まあいっか。
ただ噛んだだけ、もしくは僕の聞き間違いだろう。
なんもかんも今さらだしね。
生まれたことが運の尽きだ。
でもならばなぜ生きるのに抗う?
教義に従う?
何も考えられない。
だからもういいよね?
「この子は変わってるから気にしないで」
アンナさんは呆れまじりにフォローした。
とそこで僕の手になめらかで柔らかな感触が伝わった。
一瞬手を握られたのだと、わからなかったほどだ。
マユハは耳かきの
「父はいと生きるべき」
『トウくん、サタンに耳を傾けては駄目よ』
「父を死なせない」
まるで天使と悪魔が僕の頭の周回軌道上を狂喜乱舞していた。
朦朧とした意識の中で見えないはずの母の面影を見る。
『血は邪悪なものなのよ。忌避しなければならない。サタンの血を体内に入れてはダメよ。何があっても裏切っちゃダメ。ね、わかった?』
このまま死んじゃったら天国に行けるのかな?
『そうよ、トウくん。人のために生きなさい。そうすれば神様が喜ぶわ』
「父」
「トウタくん!」
銀杏ノ宮家の長女と末妹の声が聞こえる。
ねえ、どうしてかな?
僕は輸血することが悪いことだとは思えないんだ。
生きようとすることが悪いこととは思えないんだ。
母さん、僕はただ生きたいんだ。
たとえ目が見えなくなってもさ、まだ死にたくないよ。
やり残したことがある気がするんだ。
ほっとけない奴がいるんだよ。
心臓の鼓動が生きたいって痛いほど訴えてるんだ。
そのために血が必要なら頭を下げても分けて欲しいよ。
目から熱い涙がこぼれ落ちる。
いや、これは……。
「トウタくん、目から血が……」
アンナさんが
『トウくん、地獄に堕ちるわよ?』
「いいよ」
『サタンみたいな子ね。あんたなんか産まなきゃよかった』
「うん。母さんの望み通りに生きられなくてごめん。でも、あなたはもう死んでいる」
僕は生きる。
最後の生命力を振り絞ってまだ生きる。
そして懇願した。
「僕に血をください。輸血を、お願いします」
まさか吸血鬼でもないのに、こんな願い事を口にする日が来ようとは思いもしなかった。
「
「よく頑張ったわね。トウタくん、きみは強い子よ」
マユハとアンナさんはそう言って、さっそく僕の輸血に取りかかった。
僕の血液検査の結果が出た頃だろう。
「ABO式血液型検査ではオモテとウラでO型っと。不規則抗体検査は陰性。Rh式血液型検査では抗D血清認定は陰性」
「どういうことですか?」
「一言でいえばRhマイナスってこと」
言いながらアンナさんの声は曇ったままである。
「342種類ある血液型抗原のうちRh式血液検査ではそれを約50種類に分類して用いる。代表的なもので抗D、C、c、E、e――ね。そしてもっとも強い凝血反応を示す抗Dが陰性だった」
「何か僕の血液型はまずいんですか?」
「うーん、ここまでならままあること。でもトウタくんの場合、抗C、c、E、eも陰性と出てる。Hr0、Rh17、Rh29、Lwに対する抗血清との反応はいずれも陰性。D、C、c、E、eに対する抗血清を用いた患者血球の吸着解離試験はいずれも陰性」
「えっと……」
日本語でプリーズ。
「つまりすべての抗原・抗体がない。Rhプラスでもなければマイナスでもない――
先ほど杏奈さんはツイてるといったが、どうやら実は真逆だったようだ。
「別名黄金の血液とも呼ばれる。他のどんな血液型の人にも輸血できる一方で自分は自身と同じnull型でないと抗原抗体反応により凝集や溶血などが起こるため他者からの輸血をしてもらうことができない。Rh-null型の輸血療法では自己血輸血が困難で同種血液製剤を用いる場合適合製剤選択に多大な困難を伴うとされる」
「…………」
「あっ、でも早とちりしないで」
一転アンナさんは気丈に振る舞った。
「きみはちょっと珍しいタイプの血液型かもしれないって、あくまで可能性の話だから」
「……はあ」
「だからトウタくん、献血とか……してるわけないわよね?」
年齢的にもしているわけがなかった。
そして家庭の事情的にも宗教上の理由的にも。
こんな愚問を呈してしまうとはアンナさんも相当気が動転しているようだ。
「ちょっと待ってて。トウタくんに使える血液がないか探してくるか――」
アンナさんが立ち上がりかけた――まさにそのとき、近くで爆発が起こった。
ビチャビチャッと下痢便のような音がして辺りに熱い水滴が飛び散る。
咄嗟に爆風からアンナさんが僕のことを庇ったことは触れる感触や吐息で伝わった。
顔を上げたアンナさんは絶望的な声で呟く。
「献血車が……そんな……」
どうやら爆発したのは横転していた血まみれの献血車らしい。
おそらく輸血バッグが破れて血だまりができておりガソリンが漏れていることにアンナさんも気づかなかったのだろう。
彼女はよくぞここまでやってくれた。
手を尽くしてくれた。
だから、いいかげん解放しよう。
「もういいですよ。アンナさん」
「もういいって……何がよ?」
「僕なんかのためにがんばらなくてもいいんです」
「…………」
罰が当たったとは思わないけど、ただ運が悪かった。
血が悪かった。
気持ち悪かった。
それでも最後に真っ当な人間として、ひとかどに死ねるのなら本望だ。
するとアンナさんは絞り出すように言う。
「私はまた救えないの」
教会側であるはずのアンナさんがなぜ僕にこんなふうに接してくれたのかはわからずじまいだったけど、しょうがないよね。
テラアースと同様に僕も時間切れだ。
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