第10羽 マントラ

 暗い樹海を抜けるとそこは人気のない古ぼけた展望台だった。僕とダイアはバイクに跨がったまま、その展望台から火の手の上がる町と渋滞している車の群れを眺めた。その車が電気羊の群れに見え、皮肉なことに今まで見た夜景の中でいちばん明るかった。消防車や救急車やパトカーなどの働く車が総動員され赤いランプと炎が町を明滅させる。


 その夜景の真向かいには鳥居が立っており、境内に石段が続いていた。


「懐かしいぜ。まだこの神社が残ってたとはな」


 ダイアはノスタルジックな口調で言った。

 それから挑発するように続ける。


「まさか鳥居をくぐったら体が溶けるとか言わねえよな?」

「いつの話をしてるのさ」


 僕はもう子供ではないのだ。

 それを聞いてダイアはいやらしい笑顔を浮かべた。

 嫌な予感がする。


「そうか。じゃあぶっ飛ばすぜ」

「ま、まさか!?」


 そのまさかだった。

 黒いバイクはうなりを上げると太蚕神社の社額のかかった鳥居をくぐった。一段二段三段と石

段を颯爽と駆け上る。前輪がジャンプして着地と同時に境内の砂利にタイヤ痕をつけた。

 いやよく見ると、それは砂利ではなくひとつひとつが白い繭だった。雪が降り積もったように境内に白い繭が敷かれていた。


 まったくバイクで参道を走るとは罰当たりもいいところだ。

 今からでも遅くはない。

 バイクから飛び降りよう。


 僕がそう決心した瞬間、バイクは停車した。

 僕は顔を上げると、目の前にはいつぞやの太蚕神社の拝殿が鎮座していた。雨風に曝された柱や本坪鈴や賽銭箱も何も変わらない。まるで7年前から時が止まっているようで相変わらず石灯籠の中には蜘蛛の巣が張っていた。


「繭に導かれておめおめとここまで来たが、何かしらの罠じゃねえだろうな」


 ダイアがぼやく気持ちもわかる。

 ここまで水先案内をしてくれた白い繭は砂利のように敷き詰められた他の繭と混ざって見分けがつかなくなっていた。

 とそこで何やら声が聞こえた気がした。

 明らかにダイアのものではない。ずっと断続的に僕の鼓膜を楽器のように叩いて揺らしている。僕はその声の発生源を突き止めるべく、バイクの後部座席から降りて代わりに脱いだフルフェイスを乗せると、拝殿の前へと歩いた。


「おい、トウタ!」

「誰かの声が聞こえるんだ」


 僕は答えると、繭で足の踏み場もない参道を渡る。光に誘われる蛾のように拝殿の前に立った。


「まさかこんな非常事態に祈ろうってわけじゃねえだろうな?」


 同じくバイクを降りたダイアは腐すように言う。


「でも祈らないと不法侵入になっちゃうんでしょ?」

「なんだそれ?」

「いやこの話……昔ダイアから聞いたんだけど?」

「そんな祈りのぼったくりバーみたいな話したか? 俺?」

「神社のことをお祈りのぼったくりバーって言わないでよ」


 宮大工の不足や修繕費・改装費や跡継ぎ不足も相まって信仰のなくなった神社はほとんど死に体で存続は不可能に近い。

 とはいえ、7年経った今でも僕のもとに天下の回りものであるお金は回ってこず、貧乏くじばかりを引かされている気がする。おみくじでも必ず大凶が出てしまうのが僕だ。何か持っていないか僕はボロい学生服の穴という穴に手を突っ込んでまさぐる。すると学ランのポケットからとあるものが出てきた。

 それはマユハからプレゼントされた桑の葉だった。


「なんか悲しくなるぜ」


 憐れむような目で僕を見ないでよ、ダイア。

 それからダイアは腕を組んで大胆不敵に宣言する。


「言っとくが俺は祈らねえぞ」

「わかってるよ。じゃあそこでおとなしく見といて」

「あいよ」


 意外にも素直に柱にもたれかかるダイアを尻目に僕はお賽銭代わりに桑の葉を投げた。ひらひらひらと賽銭箱に落ちていく桑の葉。僕はパンパンと両手を叩いてから目を閉じて手を合わせる。

 今の状況で祈ることなどひとつしかないのだが、別に祈ってもしょうがないと思っている自分がいる。どうせ誰かが祈っていることだろうし、祈ったところで特段何かが変わるとも思えない。それでも世界が変わらないのであれば、せめて僕自身が変わりたい。

 そうすれば少なくとも自分の世界は変わるはずだと思うから。

 しかし変わってしまった僕の目には世界はどう映るのだろうか。

 そして、それはまだ僕と言えるのだろうか。

 つい僕の悪い癖で祈りという行いについて考えて祈るのを忘れていた。

 しかし、その次の瞬間――突風が境内を吹き抜けた。それから僕の頭頂部にファサッと物体が載る感覚があった。なぜかわからないが視覚ではなく感覚的にその物体が僕はわかった。こういうのを第六感というのだろうか。それは僕のお賽銭した桑の葉だった。

 まるで目には見えない何者かに突き返された気分だ。


「なにやってんだ、バカタレが」


 ダイアは呆れたように言った。

 まるで僕は神社と一体になったような感覚になった。空気の流れから神社を取り囲む大木の枝に付けた葉の枚数から、僕には手に取るようにわかる。次にダイアは僕の頭頂部の桑の葉を払おうとする。

 でも、その必要はない。


「ダイア、だいじょうぶ」

「あ?」

「これでいい」

「これでいい……って、おまえ」


 ダイアは空を掴むように手を下げて言葉を落とした。

 風が木の梢を揺らす音が神社に響くなか、僕は耳を澄ませると先ほどから蝉の鳴き声のように残響する言葉が徐々に明瞭になってきた。それは呪文のような歌のような言葉だった。その言葉を親鳥が雛に口移しするときのようにやさしく唇に乗せる。


「オーム・サンサーガ・ケセラ・パセラ・マユボダラマニ・ウカ・ソワカ」


 僕はそう唱えた。

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