第3羽 鼻血

 彼女は僕とダイアの通う星ヶ丘ほしがおか小学校の隣のクラスの同級生である。

 本名が道長覇愛十みちながはあとなので、鳩というあだ名が付いている。


「ダイアとトウタみっけ」

「いつからかくれんぼやってたんだよ。ツインテールババア」

「同い年なんやけん、ダイアもジジイなるばってん、よかと?」


 ダイアに負けず劣らず、勝ち気というか負けん気の強い女子である。


「だいたいなんだその髪型。古代怪獣リスペクトかよ」

「コダイカイジュウ?」

「自分の髪型の語源も知らねえのかよ。バカタレが」


 ちなみにツインテールの語源は『帰ってきたウルトラマン』に登場する古代怪獣ツインテールが元となっているのだ。


「……いや知らんばってん」


 しかしそんな僕たちの常識には興味なさそうなハアト。


「なんかアバンギャルドな建物からふたりが走って出て行きよったけん、あとばこっそり尾けてきたと」


 どうやら天の川教会から僕とダイアは尾けられていたらしい。


「そしたら山んなか入っていくけん、びっくりしたやんね」

「帰れよ。ストーカー鳩」

「どがんやって帰ればいいのかもわからんし、ストーカーやなかし、鳩でもなかし」


 ハアトは三段否定をしてから質問を重ねる。


「こがんところでなんばしよったと?」

「今からちょうど参拝するところだったんだ。よかったらハアトもする?」


 いちいち誘う僕にダイアは頭を抱える。


「よかと? あたしもサンパイしたか!」


 というわけで僕たち三人は空っぽのお賽銭箱の前に立った。


「でも僕、お賽銭がないよ。ハアトはどう?」

「もち、なかよ」

「だよねー」


 普通の小学一年生がお金を持っているはずがない。そう普通の小学一年生ならね。

 それから僕とハアトは捨てられた子猫のような目でダイアを見る。


「そんな目で見るんじゃねえ。俺だってお賽銭する用の金はねえよ」

「そっか。じゃあ三人とも一文無しだね」


 僕が頭を悩ませているとダイアは閃いたように言った。


「そうだ。今日、天の川キョーカイから押しつけられた紙切れあったろ」

「星送りの祭式用の短冊だね」


 僕とダイアはそれぞれランドセルから二枚の短冊を取り出した。ちなみに僕のランドセルは他の教会員の二世から貰ったおさがりなので入学早々ボロボロだった。

 ともあれ一般的に短冊と言えば七夕のことを思い浮かべるかもしれないが、これは七月七日に天の川教会で先祖の霊を迎えて送り出すための霊具とされていた。願い事を書いた二枚の夫婦めおと短冊を先祖に預けて聖なる夫婦星アルタイルとベガを経由してから最終的には神様の下まで持って行ってもらうということらしい。


 まあ僕とダイアは星送りの祭式をばっくれてしまったのだけど……。

 しかし星送りの祭式が終わるまで僕とダイアに捜索願が出されることはないと思うのでそれまでに教会に戻れば問題ない。行方不明の子供よりも優先しなければならないこの星送りの祭式がどれほど教会内で重要な行事かがうかがえる。天の川教会は七夕伝説をベースにした新興宗教なので七月七日は特別な日なのだった。


「トウタ、あたしにも一枚ちょうだいくさ」

「いいよ」


 僕は紅白のうちの紅色の短冊をハアトに渡した。

 それからおのおのランドセルから筆記用具を引き出してから神社の拝殿の前の階段で短冊に願い事をしたためた。三人とも互いに背を向けて片手で隠しながら願い事を書いていたが、僕の位置からはハアトの願い事が見えてしまった。そこには丸文字でこんな願い事が書かれていた。


『だいあとケッコンできますように』


 そのとき僕はなぜハアトが僕とダイアのあとを尾けてきたのか合点がいった。

 それと同時に胸がチクリと痛んだ。

 天の川教会では自由恋愛は禁忌とされている。彦星と織姫は神様の決めた許嫁と結ばれたと解釈しているためだ。そして彦星の生まれ変わりである教祖は人類の中で唯一神様と交信できるとされている。ここで妻が織姫の生まれ変わりではないのが味噌というか、男尊女卑的な思想で要するに教祖にとって都合が悪いのだろう。信者同士を集めた星合い結婚式でまた僕と同じような二世を量産するという悪魔のシステムが構築されている。

 ぐだぐだと考え事をしているとダイアとハアトが心配そうに僕を見ていた。


「あっ、別にあせらんでよかよ。トウタ」

 

 ハアトは気遣うように僕に言った。

 その横でダイアはランドセルを枕代わりにしながら寝そべり鉛筆を上唇と鼻の間に挟んで弄んでいた。


「早く書けよ。どうせどんな願い事なんて書いたって叶えられっこねえんだからよ」

「なんでそがんこと言うとね?」

「ああ? こういうことはな、自分で叶えてこそ意味があるんだよ」

「なんかカッコよかこと言いよらすとばってん」


 ハアトがダイアに惚れ直していた。

 そんなことを言うダイアはいったいなんと願い事に書いたのだろう。もしくは白紙提出か。

 あるいは……大病を患い、今も病院のベッドで寝ているお母さんのことを書いたのかもしれない。しかし願い事を聞き出すのは野暮な気がした。


「そうだ。ふたりば尾行する途中でいいもん拾ったとばってん、見んね?」


 そう言ってハアトはピンクのランドセルから教科書に紛れて数冊の雑誌を取り出した。その雑誌は肌色面積の多めなお姉さんが表紙を飾っている。いわゆるエロ本だった。詳細は割愛するが淫らな団地妻とかそんな見出しだった。

 うちの親が見たら発狂しそうなほどに悪魔サタンの誘惑的なものだった。

 ハアトは笑顔で提案する。


「三人で見ようくさ」

「しゃらくせえ!」


 ダイアはエロ本に向かって正拳突きを放った。

 そしてそれを蹴り上げるダイア。


「な、なんばすっと?」


 ハアトは笑顔を崩して狼狽した。

 まあ思春期の男子にとってエロ本を見てエッチな気分に浸っている自分を女子に見られるほど屈辱的なことはない。ダイアのこの行動は一般的な男子の反応だといえる。間違っていない。そして教会的にはこういう色欲の固まりのような誘惑の多い書物は忌避すべきとされる。いや、そもそも僕たちはまだ18歳未満なのでエロ本を見るのは青少年の教育的によくないことか。

 ただでさえ教会の教えとしては異性と仲良くするのもよくない行いとされていた。こちらは世間一般の常識に照らせば少々行き過ぎだろう。


 ツッコミが渋滞してきたけどだいたい神社でエロ本を広げるのもどうかと思う。この年頃の女子は男子よりも肉体面でも精神面でも早熟だというがそういうことか。

 いや、なんか違う気がするな。

 ともかく僕は常識的な一言を物申した。


「ハアト、神社で罰当たりだよ」

「その背徳感がよかとよ」

「なにその学校でお菓子を食べたらおいしいみたいな論理は……」

「禁忌という名のスパイスやね」


 そういえばハアトは堕落に誘惑する悪魔の子として教会のご母堂たち、ひいては僕の母さんから嫌われている。もっと言えば目の敵にされている。

 そんなハアトとエロ本を足蹴にするダイアはエロ本投げ合戦で格闘していた。するとその足下のエロ本に紛れて一冊の真っ白なノートが捨ててあった。表紙には灰色の樹木に枝葉の代わりに十二枚の翼の生えたような気味の悪いものだった。カラフルでド派手好きなハアトの私物とはとても思えない。

 しかし捨てられたエロ本とは違って処女雪のように全然汚れていない。

 僕がそのノートを拾おうとした――その次の瞬間、


「トウタバーリア!」


 と、唐突に僕はハアトに引っ張られた。

 それからハアトの盾となりダイアの投げたエロ本を顔面にもろに喰らってしまう。目の前にまぶしい肌色と黒いカリフラワーが現れた。カラー印刷物独特の濃い匂いと雨風に曝された野性味の強いにおいがした。


「あっ」


 ダイアは綺麗なお姉さんと入れ替わった僕の顔を見てそう一言漏らした。

 ややあって僕の鼻の奥から生温かい液体が伝う感触があった。そしてポタポタと締まりの悪い蛇口のように血が垂れた。僕は反射的に鼻を塞いで天を仰いだが間に合わず、白いノートに鼻血が飛び散ってしまった。


「トウタ、上向いたらいかんよ」


 ハアトは慣れた様子でトウタの鼻にピンクランドセルのポケットから取り出したティッシュを詰めて甲斐甲斐しく介抱した。

 不幸中の幸いにも鼻血はすぐに止まった。


「ありがとう。ハアト」


 鼻声で僕はお礼を言った。


「んにゃ、よかよか」

「元はといえばおめえのせいじゃねえか」


 ダイアはハアトを白い目で見た。

 しかしバツの悪そうなハアトはあからさまに話を変えた。


「まさかこんなにトウタがエッチやったとは驚いたばってん」

「いや、これは違うから」


 どうやら僕が興奮して鼻血を出したと誤解されてしまっているらしい。しかし僕が鼻血を出したのは興奮したからでも、ましてやエロ本を鼻っ柱に喰らったからでもない。それは理由の本質ではない。

 僕は自身の汚名を返上するべく説明しなければならない。僕は鼻血を噴き出してしまった本当の理由を告白した。


「僕は他人に触られると鼻血が出ちゃう体質なんだよ」

「苦しい言い訳やね」


 ハアトは苦笑した。

 でも託児所から僕を知っているダイアは冗談でもないふうに言う。


「まあそれ本当だけどな」


 しかしハアトは信じられないという様子だ。

 まあそんな恥ずかしい体質を信じろって言うほうがおかしいか。


「ダイア、ほんなこて?」

「ああ。だからやめたれ」

「ってことはあたしのせいやんね」

「だからそう言ってんだろ、バカ」


 意外にも驚くべきことにハアトはすんなり信じてくれたようだった。

 ダイアの言うことなら何でも素直に信じてしまうようだ。

 僕は補足する。


「といっても、実はダイアにだけなら触られても大丈夫なんだけどね」

「へえ、ダイアはよかと? なして?」

「まあずっと一緒にいるしね」


 照れくさく僕は言った。


「天の川教会では『血は避けよ』の教義で輸血は大罪だから気を付けないとね」


 今の僕を母さんが見たらきっと怒るだろう。


「俺の血でよけりゃあいくらでくれてやるよ」

「あたしも」


 二人の血のように生温かい言葉に微笑みながら僕はちらりと表紙の白いノートを見やると驚いて目を丸めた。なぜならそのノートが白かったからである。白いノートが白くて何を驚いているのかと思われるかもしれないが、この白いノートにはつい先ほど僕の飛び散った鼻血が付着したはずである。

 しかし、今となってはまるで珪藻土けいそうどマットに水が吸い込まれたように、綺麗さっぱり漂白されていたのだった。

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