第21話 意志
フリージアはアルティラの右腕に、見たことがないほどの黒い魔力が集まっているのを感じ取っていた。そのあまりの形相にフリージアは冷や汗が出る。周囲を見渡すが、通りがかりの人はいなかった。
「助けなんて来ないわよ、グズ。ったく、あなたのせいでどれだけの屈辱を受けたと思う?」
「うっ……」
(逃げなくちゃ……!)
でも身体が動かない。アルティラが近づきながら腕を振りかぶる。フリージアを何百回も叩いた腕だ。黒い魔力が鞭のように伸びる。
「でも私は優しいからね。あなたが本当に心から反省するまで、じっくりとわからせてあげるつもりよ」
黒い魔力がフリージアの身体まで伸びる。そこにラーベの鋭い声が飛んだ。
「逃げて!!」
腕の中のラーベがフリージアの腕からすり抜けて、黒い魔力に立ちはだかる。
「邪魔よ、精霊ごときが!」
「ぐっ……くぅぅぅっ!」
ラーベの全身から白い魔力の波動が放たれる。黒い鞭が後方の魔力に弾かれ、宙を舞った。でも黒い鞭は空中でのたうち、再びラーベに向かう。
「やれやれ、精霊に邪魔はさせないよ」
後方の博士から茶色の魔力が放たれるのを感じる。瞬間、魔力の輪がラーベを包み込んで博士に引き寄せられていく。
「んぐっ、ううっ!」
「最古の精霊と言えど、定められた土地から離れればご覧の通りだ」
ラーベは空中でもがくものの、身動きが取れないようだった。逃げてと言われたが、ラーベを見捨てるわけにもいかない。ああ、だめだ。
(私は、どうすればいいの!?)
戸惑っている間に、アルティラがフリージアに再び黒い鞭を向ける。
「ほら、やっぱり全部私の思い通りになるのよ! そうなって当然だわ!」
黒い鞭の先がフリージアに迫る。避けようと思ったけれど、間に合わない。いや、避けてはダメなのだ。避けたりしたら余計にアルティラを怒らせる。
頭の中がぐちゃぐちゃになったフリージアには、どうすることもできなかった。そのまま鞭がフリージアの肩を打ちつける。鋭い痛みが走り、がくんと体勢を崩してフリージアは地面に倒れた。たったの1発でフリージアの心は挫けそうになっていた。
「すぐには終わらせないわよ。たっぷりとお仕置きしないと気が済まないわ!」
「うっ、あぁ……」
ずきずきと肩が痛む。どうにか、どうにかしないとなのに。身体が熱くなり、目に涙が溜まる。フリージアは無力さを痛感しながら、アルティラを見上げることしかでなかった。アルティラはそばまで来ると、フリージアの髪を掴んで力任せに持ち上げる。
「はん、どうしたのよ! 私に歯向かったんじゃなかったの!? それとも馬鹿なあなたは、こうなると思っていなかったのかしら!」
フリージアはうめくことしかできなかった。身体が痛い。怖い。
どうして「幸せ」を感じてしまったのだろう? あの離れにすぐ戻れば、何も変わらずに済んだのに。フリージアには何もできなかった。結局ベルダ伯爵家から、アルティラから逃げることなんて不可能だった。
アルティラが勝ち誇りながら、フリージアを地面に叩きつける。そしてアルティラは靴でフリージアの頭を上から踏んだ。
「ふふっ、ウェルナーク様に媚びて逃げようとしたみたいだけど、無駄だったわね! でもどうやってウェルナーク様をたらしこんだのかしら? やっぱり売女の娘だから?」
「……ウェルナーク様」
「あなたがその名前を呼ぶんじゃないわよ!」
アルティラが叫び、靴に力を入れる。痛い。泥の匂いで何もわからなくなる。
「あなたにウェルナーク様はもったいないわ。あの人は私のものなんだから!」
なんとか顔を上げると、アルティラの全身から黒い魔力が立ち昇っている。こんなに魔力を爆発させたアルティラを見たのは初めてだった。アルティラが黒い鞭で地面を叩く。
「おお、中々の魔力だ。感情の起伏が魔力に与える影響は実に興味深い」
「ふん――あなた、精霊と遊んでいるだけで楽しいの?」
「これでも相手は最古の精霊だからね。一時的に動けなくさせるだけで精一杯だ。というわけで、こっちも君がなんとかしてくれないか?」
博士があごでラーベを指し示す。フリージアはぞっとした。
「な、にを……」
「ああ、君は知らないのか。精霊を殺すことはできないけれど、魔力で傷つければ眠らせることはできるんだ」
博士がなんでもないように答える。ラーベは魔力の輪の中でもがいていた。でもどれだけ輪の中で暴れても、輪はびくともしない。
「とっても長い間ね。どっちにしても証人は残しておけないだろう?」
「……やめて」
(私はどうなってもいい。元に戻るだけだから……)
でもラーベはウェルナークの家族だ。あの瞳を持ってしまったウェルナークの、多分唯一の友達で、フリージアにとっても一番の――。
「いい顔ね」
アルティラが口角を上げて微笑む。昔から知っている、危険な笑いだった。
「先にあの小汚い猫を始末するほうが、お仕置きになるみたいね。理解できないわ。自分よりも精霊のほうが心配だなんて」
「だめ……っ」
全部、なくなってしまう。
(私のせいだ……っ!)
ラーベがいなくなったら、ウェルナークはひどく悲しむだろう。あのウェルナークが絶対に傷つく。
(だめだ。このままじゃ。あと少しで、全部が終わっちゃう。全部が壊れちゃうっ!)
「今の私なら、精霊だってズタズタに引き裂ける。見てなさい! これもあなたのせいなのよ!」
アルティラが叫び、全魔力を右腕の黒い鞭に移す。ちりちりと黒い鞭が火花が出ている。地面に這いつくばるフリージアの肌を焼くほどの魔力だった。
動かないと。助けないと。
魔力があるのなら、今なんとかしないと。
「ほら、これで――!!」
アルティラが腕を振り上げる。許せない。止めないといけない。
好きにさせないために。ラーベを守るために。
「うああぁぁぁぁぁっ!!」
フリージアは力の限り叫んだ。身体中の魔力が爆ぜる。魔力が全身を駆け巡るのを感じる。
「なっ、あなた――!?」
黒い鞭に集中していたアルティラがバランスを崩す。フリージアは頭を踏まれていたけれど、もう重さは気にならなかった。フリージアは脚に力を入れ、一気に立ち上がる。フリージアがはねのけたせいで、アルティラはそのまま地面に倒れた。
顔は泥だらけだ。でも構っていられない。感じたことのないほど、フリージアは――そう、怒っていた。激しく鼓動する心臓と一緒に、フリージアの青い魔力が大気を焦がしている。
片手をついたアルティラが今度はフリージアを驚くように見上げた。
「……どうして、あなたがこんな魔力を」
フリージアはそんなことに構っていられなかった。目的はひとつしかない。
「ラーベは私が守る……!」
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