第2話 新生活へ
大広間はたちまち大混乱に陥った。その混乱のことはフリージアの理解を超えていた。怒号が飛び交い、魔法がいくつも宙を舞う。
ただ、ウェルナークはそこでも他を圧倒している。紅い瞳が輝くと、それに睨まれた人は例外なく地に伏せることになった。荒れ狂う大広間の中で誰もウェルナークを止めることはできなかった。
(ど、どうすればいいの!?)
フリージアは近くのテーブルの下に飛び込み、おろおろするしかなかったが、やがて混乱は終わった。オークションの客や主催者がウェルナークたちによって縛り上げられ、大広間から連れ出されていく。
しかしその中にアルティラはいなかった。
(そういえばアルティラ様はどうなったのだろう……?)
きょろきょろと周囲を見渡していると、アルティラの金切り声が聞こえてきた。
「やめて、私に触らないで!」
アルティラがウェルナークの仲間に腕を掴まれ、裏から連れて来られてきた。
服も髪も乱れており、かなり手荒だったようだ。しかし屋敷でもアルティラをこんな風に扱う人は誰もいなかったので、フリージアは唖然とするしかなかった。
「私はベルダ伯爵家の令嬢よ! あなたたちが触っていい存在じゃないわ!」
アルティラがわあわあ騒ぎ、フリージアを睨む。面倒に巻き込まれた、どうしてくれるという叫びが聞こえてきそうだった。アルティラは両脇を抱えられ、ウェルナークの前に立たせられる。
ウェルナークはアルティラに冷たい目線を向けた。紅い瞳が血のように濡れて輝いている。フリージアの背筋がぞくっと震える。
「ベルダ家の令嬢が人身売買の現場で何をしていた?」
「――ああ、ウェルナーク様! 私を忘れたのですか!? ほら、2年前の夜会でお会いしたのに!」
「まずは質問に答えてもらおう。ここで何をしていた?」
「私は何も知りません! 屋敷の人に言われて、連れ出されただけよ!」
「ほう、そうなのか?」
アルティラは噓をついている。
1週間前に『オークション』がある、とフリージアに告げたのは彼女なのだ。
でもそれを言ったらアルティラは激怒するだろう。ウェルナークはため息をつく。紅い瞳の色が濃くなる。魔力だ。
アルティラは右腕から魔法を使うけれど、ウェルナークは瞳から魔法を使うらしい。
「そう言わずに、もう少し色々と説明してくれないか」
ウェルナークが少し屈んで微笑み、アルティラを甘い微笑みで見つめる。すると騒いでいたアルティラ様が静かになり、頬を赤く染めた。
(何かしているの……?)
ウェルナークの笑顔を見ていると冷や汗が出てくる。――アルティラの笑顔に似ている気がするのだ。笑顔の奥底に苛立ちをうまく隠している。
「なっ……えっ……」
「悪いようにはしない。約束する」
「そ、そうね……。きちんとした場所で、ふたりきりなら話してあげてもいいわ。こいつら平民には理解できない話だもの」
アルティラがそばにいる男の人たちを睨みつける。乱暴に扱われたのが許せないらしい。ウェルナークが笑みをすっと消して、立ち上がった。
「わかった。そのように手配しよう」
「ああ、やはりウェルナーク様は話が分かるわ! 約束だからね!」
ウェルナークが厳しい顔をしていることに、アルティラは気付いていないようだった。もう睨んでいたのも忘れ、上機嫌になっている。アルティラの気分はすぐに変わるとはいえ、呆れてしまう。
ウェルナークが今度はフリージアのほうに近寄ってきた。ウェルナークから手を差し出され、フリージアはテーブルの下からのそのそと這い出る。彼と話しをしない限り、この状況から抜け出せそうもなかったからだ。フリージアはゆっくり立ち上がり、ウェルナークの紅い瞳を受け止めた。
「あ、あの……」
「君からも話を聞かないといけない。でも、もう大丈夫だよ」
何がどうなっているのか、全然わからない。でも眼差しと声音は優しかった。フリージアは頷くしかない。
「とりあえず君を保護しなきゃいけない。歩けるかい?」
「あっ、はい……大丈夫です」
「じゃあ、行こう。外に馬車を待たせてある」
そうしてフリージアは言われるがままウェルナークと歩き出し――しまったと思った。アルティラは何でも自分が一番じゃないと怒り出す。
フリージアがそれに気が付いた時にはもう遅かった。
「ちょっと待って! そんなグズはどうでもいいでしょ! まず私を連れて行ってよ!」
「彼女は重要参考人だ。安全なところまで優先的に連れていく必要がある。君のことはそのあとだ」
「私が置いてきぼり!? 納得できないわ!」
やはり後回しにされたのが許せないようだった。さっきまでの機嫌の良さは吹き飛び、すでに怒り出している。フリージアは怖くて足が自然に止まってしまう。しかしウェルナークは優しく手を取り、歩くよう促した。
「行こう」
「えっ、でも……」
「彼女を気にする必要はない」
アルティラはなおも騒いでいるが、ウェルナークはそれを無視してフリージアを大広間から連れ出そうとする。とりあえずこの人に付いていく……しかなさそうだった。背中にアルティラからの突き刺さるような、憎しみの視線を感じる。
「待ちなさい! 奴隷のくせに私の言うことが聞けないの!?」
「あっ――」
まずい。アルティラが本気で怒った。彼女の右手に黒い魔力が渦巻き、長い鞭の形になる。そのままアルティラは右腕を素早く振るい、フリージアを鞭打とうとした。
「黙れ」
ウェルナークがアルティラに向けて、恐ろしいほどの威圧感を放った。紅い瞳の色が濃くなり、魔力が集まっている。
「がっ、ぐぅぅっ……!」
うめきながらアルティラが喉を押さえる。見ると、紅い輪のようなものが彼女の喉に巻きついていた。一瞬の早業であったが、黒い鞭の魔法もすでに消えている。
「魔法乱用、暴行、公務執行妨害の現行犯だ。度し難い御令嬢だな」
「うぐっ、ううっ……!!」
「面倒だからそのまま寝ていろ」
アルティラが膝を折って倒れ込む。あのアルティラをこんな風にするなんて……フリージアは絶句してしまった。
周囲の男の人が倒れたアルティラを引きずりながら奥へと運ぶ。なんだかちょっとおかしな光景だった。そのままアルティラは消えていく。
「こうしないと静かにならないようだったのでね。さ、行こう」
「よかったのですか……?」
「むしろ優しいほうだ。じきに目を覚ますだろう。その時にまた怒り出さないといいが……。それよりも魔法で狙われたのは君だぞ? 彼女を心配するのか」
「あっ……えっ、ごめんなさい……」
ウェルナークがすっと声色を穏やかにする。
「……謝る必要はない。答えづらかったか」
何も言うことができないまま、フリージアはウェルナーク様に連れられる。建物から出ると黒塗りの馬車が待ち構えていた。
「とりあえずこの馬車に乗って、公安庁まで同行願う」
「……はい」
ウェルナークは先にフリージアを馬車に乗せ、ぽつりとつぶやく。
「君が聖女の末裔かどうか、慎重に調べないとな」
フリージアはふかふかの馬車の座席に腰掛け――そこではっと思った。いつもの薬を今日は飲んでいない。毎日、決まった時間に薬を飲むよう『博士』に言われていたのに。というか、大混乱のせいで飲む暇もなかったが。
「あ、あの……」
薬はどこにあるのだろう?
アルティラが持っているか、ここに来たときの馬車にあるのか。
「どうかしたのか……?」
「うっ……ぐぅ……!」
まずい。気付くのが遅すぎた。
(だめ――)
フリージアの息が苦しくなり、手が震え始めた。
ウェルナークが馬車に飛び乗って声を荒げる。
「大丈夫か!?」
フリージアは答えられない。胸が締めつけられ、視界が暗くなる。
足も冷たくなっていく。ウェルナークがフリージアの手を取った。
「これは魔力過多症――?」
薬はアルティラか乗ってきた馬車にあるはずだった。
しかしそれを伝えることもできない。
――ウェルナークの綺麗な顔が歪み、紅い瞳が輝く。
ごめんなさい、心配させてしまって。
そこでフリージアの意識は途切れたのだった。
♢
そしてフリージアが目覚めると、ウェルナークの屋敷にいた――というわけだ。
リンゴとハチミツについては、とりあえず甘い物ということで理解した。
「体調は落ち着いているか?」
「はい、とても……」
ふかふかの布団の上で手を握り、開く。何の支障もない。
本当に体調は良くなっていた。
「お薬を取ってきてくれたのですね。ありがとうございます」
「…………」
ウェルナークが一瞬、目を細めて軽く息を吐く。
(あれ? 違うのかな?)
「君の体調を良くしたのは、これのおかげだ」
「はぁ……」
ベッドのそばに小さなタンスが置かれている。木目が美しく揃ったタンスだ。屋敷にあるタンスより、ずっと好きになれそうだった。
ウェルナークがタンスの上にある小さなペンダントを手に取った。複雑な銀細工のペンダント――立体的に銀の糸が絡み合っている。
「わっ、すごいですね。綺麗です」
「このペンダントに君の魔力を流し込んだ。それで君の身体の魔力を減らしたというわけだが」
ウェルナークの歯切れが悪い。
「このペンダントに見覚えは?」
「えっ? とても綺麗なペンダントですけど、初めて見ました」
「そうか……」
ウェルナークがなぜか悲しそうな目でペンダントを懐に入れた。フリージアはそれにびくりとしてしまう。
「ごめんなさい。何か……まずいことを言ってしまいましたか?」
「いや、君は何も悪くない」
「でも私、さっきから聞かれたことに何も答えられなくて」
「――それも気にしなくていい」
そういえば、ウェルナークは全然怒らない。アルティラはすぐに不機嫌になって怒るのに……。
「あっ、そうだ……。アルティラ様はどうされたのですか?」
「彼女にも少し聞きたいことがあって、別の場所にいてもらっている。当分、会えないだろう」
「当分……じゃあ、私は……」
「フリージア、君がどうなるかは不明だ。でもアルティラ・ベルダとはしばらく離れることになるだろう」
アルティラと離れていい、というのは嬉しかった。殴られる心配がない。
「俺は今回のことを報告しなければならない。夕方には戻ってくる。君の世話については――こいつがする」
そこでウェルナークがベッドの下に身体を傾け、何かを抱えたようだった。
「ほら、挨拶をしろ」
「むに……」
身体を戻したウェルナークの腕の中には、ふわふわの大きくて太り気味の白猫が抱かれていた。とても眠そうで――背中には小さな羽がついている。
(あれ……猫に翼はあっていいんだっけ?)
昔、一度だけ屋敷に猫が入ってきたときはアルティラが大騒ぎをして追い出した。そこでフリージアは猫というものを知ったわけだが……それくらいしか猫の知識はない。
「んにゃー。僕はラーベ、精霊ケット・シーだよ」
「まぁ……猫って人の言葉を喋れたのですか?」
「普通の猫は喋れないよ」
「でもラーベは喋っていますよね?」
「僕は猫っぽいアレだから喋れるだけだよ」
フリージアはこてんと小首を傾げた。
「……難しいですね。どう見ても猫ですけれど……」
「こほん、その辺りの説明は後でもいいだろう……。とりあえずラーベはこの屋敷のことならなんでも知っているし、食事も作れる」
「なんと賢い猫なのでしょう……!」
「猫じゃないよ」
フリージアは自分で食事を作ったことがなかった。そうすると、ラーベのほうがずっと色々なことができるに違いない。
「では、また夕方に」
「はい……いってらっしゃいませ」
ウェルナークはベッドそばのタンスにラーベを乗せると、優雅に立ち上がって部屋から去っていた。
「んにゃ。何か持ってこようか?」
「あっ……そんな私のことは気にせずに。そういえば、他の方々はお屋敷にいないのですか? 挨拶をしなければ……」
「いないよー。この屋敷に住んでいるのは僕とウェルナークだけ」
「そうなのですか?」
ずいぶん立派な屋敷のように思えたが、そうらしい。フリージアの住んでいた屋敷には数十人がいたのに比べると、寂しい気がする。
「ウェルナークは家族と仲良くないから」
「へ、へぇ……」
フリージアも母方の家族とは会っていない。父とも会う機会はほとんどなく、あのアルティラが一番接している家族ということになる。
「ま、家族は置いておいて……このリンゴとハチミツのジュースでも飲みながら、色々と話そうよ」
「私はずっとお屋敷にいて、外のことは全然知らないのですけれど……」
「いいからいいから」
思えば、こんなふうに猫とお喋りする機会なんてなかった。ラーベのごろごろした撫で声も聞いていて気持ちがいい。
(暮らしていた部屋よりも安心できるなんて……!)
フリージアはそのことに感謝しつつ、ラーベと他愛ないお喋りを楽しんだのであった。
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