無垢なる奴隷聖女は人間不信の魔眼騎士様に溺愛される

りょうと かえ

第1話 闇の人身売買

「あの……ごめんなさい……」


 フリージアはいつも謝っていた。いつも、いつも。

 特にフリージアの異母妹のアルティラはちょっとしたことですぐに怒って、フリージアを叩いた。この前は髪を掴まれ殴られた。

 他のフリージアの家族は、彼女を疎んで屋敷の離れに押し込めた。フリージアの出来ることは、従うことと謝ることだけであった。


 そんなフリージアは今、家ではない豪華なふかふかのベッドの上で顔を伏せていた。


(どうして、こんなことになったのでしょう?)


 ベッドのそばにいる貴族様はじっとして動かない。嗅いだことのない淡い香水がフリージアの鼻をくすぐる。花瓶を彩る見たことのない赤い花も優しい香りを放っていた。


「……何も謝る必要はない」


 しっとりした声音が心に響く。フリージアはゆっくりと顔を上げて、声の主である貴族様を見た。染みひとつない純白の肌、長く背中に垂れている黒髪、輝くような紅の瞳。ゆったりとした白と青のローブを着こなしている。


 ――本当に綺麗な人。


 これまでに会った、どんな人よりも完璧なようで。瞳を見ていると吸い込まれそうだった。


「改めて聞こう、君の名前は?」

「……フリージアです」

「ふむ……俺の名前はウェルナークだ。これまで色々とつらかっただろう。しばらくここで休むといい」

「はい……。ごめんなさい、迷惑をかけてしまって」

「気にする必要はない」


 ウェルナークの表情はあまり動かない。でも嫌な感じはしなかった。むしろ、虐待されてきたフリージアにとっては、出会った人の中で一番落ち着くほどだ。


 そんなウェルナークがベッドのそばにある机に目を向けた。そこには小さな、きらきらとした金属のコップが置かれている。コップの中には肌色の液体が揺れていた。


「リンゴとハチミツのジュースだ。身体が温まる」

「…………」


 そこでフリージアは首を少しだけ傾げる。


「どうしたんだ?」

「あの……すみません。リンゴとハチミツって、なんですか?」


フリージアはリンゴとハチミツを知らなかった。

誰も彼女に、そうしたことを教えなかったから。



 フリージアは記憶をたぐり寄せる。

 全ては1週間前に始まった。


 その朝自体は何も変わりはなかった。フリージアの住処は狭苦しい部屋だ。絵本とベッドと机とトイレと浴室……小さな開かない窓。それ以外には何もない。もちろん自由に小さな離れの建物から出ることも許されない。この小さな離れだけがフリージアの世界だった。


 母親は幼い頃に死んでしまい、フリージアはベルダ伯爵家に引き取られた。フリージアの本当の父親はベルダ伯爵なのだという。でも母の家系は奴隷で――だからフリージアも奴隷なのだと父は言った。最低限の衣食住だけでもありがたいと思え、らしい。


 小さな離れから外に出るな。余計なことはするな。ベルダ家の人間には逆らうな。

異母妹のアルティラは怖かった。いつもフリージアを叩き、蹴る。


 アルティラはいつも甲高い声を上げる。背は私よりも小さいが、金髪で目を吊り上げたアルティラは何よりも恐ろしい。


「なによ、このグズ! 窓に埃が残っているじゃない!」


 そしてアルティラはフリージアを平手打ちにする。


「いたい……っ!」

「いつも綺麗にしていろって言ったでしょ!」

「ご、ごめんなさい!」


 窓に埃は残っていないはずだ。アルティラは毎日来るのだから。きちんと隅々まで確認していた。でもこんなのはいつものことだった。まず何かに言い掛かりをつけないとアルティラは気が済まない。


「まったく、こんな汚れた離れに来なきゃいけないなんて。この服はとっても高価なのよ!」

「は、はい……ごめんなさい……」

「ふん、出来損ないのあなたは掃除もきちんとできないのね?」


 素直に謝ったことでアルティラの怒りが和らぐ。謝るのが少しでも遅れると、今度は魔法をフリージアに振るう。魔法は平手打ちよりもずっと痛い。


 アルティラがバッグから小石のような白い薬を出し、ぽいっとフリージアに渡してくる。


 フリージアの唯一、大事な仕事は色々な薬を飲むことだ。これはとてもとても大事な役目らしかった。フリージアが毎日薬を飲むから、この離れに住んでいいのだという。でもほとんどの薬はとびきり苦くて、痛くさえあった。薬を飲むのを躊躇していると、アルティラがすぐさま不機嫌になる。


「手間かけさせないでよ、馬鹿!」


 アルティラの右腕に黒い魔力が満ちる。こうなると、フリージアは逆らえない。アルティラが物凄い力でフリージアの顎を掴み、薬を押し付ける。

 わずかに開けた口から、薬が口の中に入る。薬はすぐにフリージアの口の中で暴れ、舌を痛めつけた。


「んぐぅっ! ぐぅぅっ!」


 涙を浮かべてもアルティラは絶対に許さない。むせながらなんとか薬を飲み干し、アルティラ様を見上げる。

 口の中が物凄く痛い。


「あ、うえっ……うぅ……」

「ふん、最初からそうしていればいいのよ」


 できる限り、苦しそうにフリージアはする。本当に苦しいけれど、さらに苦しがったほうがアルティラは上機嫌になる。フリージアはそう、学んでいた。


「ああ、それと来週――お出かけだそうよ」

「お出かけ……? このお屋敷から、ですか?」


 この屋敷の離れから外に出たのはほんの数回だ。それもなぜかフリージアが眠っている間に移動が行われ、目が覚めた時には目的地に着いているという具合であった。そしてまた眠っている間に戻ってくるのだ。


「そうよ、嬉しいでしょう?」


 アルティラが笑みを浮かべる。フリージアは身体に震えが走った。こういう時のアルティラは、とても危険だった。


「……は、はい」

「博士にも言われているの。お出かけがあるから、あなたをあまりいじめるなって」


(これで……?)


大していつもと変わらないように思えた。でも、言葉にも表情にも出してはいけない。出せば、アルティラはきっと激怒する。


 ベルダ伯爵家はとても偉い貴族なのだという。彼女が自分で言っていた――『ベルダ伯爵家の御令嬢』、あまりに尊くて、異母姉でも奴隷のフリージアなんかが本来は話なんてできない、高貴な存在……らしい。


 フリージアに対してアルティラはグズ、馬鹿、間抜け、世間知らず、化物、出来損ない、そんな風なことをいつも口走る。


「それと、あなたともそろそろお別れになるわ」

「……え?」

「悲しくなるわね、フリージア。もう会えないのよ。一生のお別れだわ」


 アルティラがきゅぅっと嬉しそうに口角を吊り上げて、目を細める。


「わからないの? 本当に何も知らないのね。いいわ、ちょっとだけ教えてあげる」

「は、はい……」

「あなた、オークションで売りに出されるの」


 ……。

 フリージアは頭の中で浮かんだ疑問を口には出さなかった。


 オークションって、なんだろう?



 1週間後、フリージアは見たことのないきらびやかな服を着せられ、屋敷の外に出た。窓越しとは違う日光に目が慣れない――だけど、フリージアは太陽が好きだった。

 しかし自由とは程遠い。アルティラが同行しているのだから。足取りが少しでも遅れれば、アルティラは容赦なく怒り出した。


「さっさと歩きなさいよ、グズ」

「はい、ごめんなさい……っ」


 あまりきょろきょろしてはいけない。

 フリージアはそのまま四つ足で動く茶色の動物――馬が動かす大きな馬車に乗って、街へと出かけた。日中の街は目が眩むほど人が多く、屋敷の外にはこんなに人がいるのかと驚かされる。服装も皆、綺麗でいくら見ていても飽きない。


 しかし楽しい時間はすぐに終わってしまう。

 やがて馬車が止まり、降りるよう命令される。そこは薄暗い大理石の建物だった。


「こっちよ。早く来なさい」


 アルティラに言われるまま、フリージアは建物の裏側、屈強な人が守っている扉から入っていく。建物の中はさらに暗く、不気味だ。逃げ出したい気持ちに駆られるが、それは不可能だった。アルティラは魔法を使える。

 フリージアが抵抗しても、アルティラは容赦なく黒い鞭の魔法で叩きのめし、連れていくだろう。暗い廊下を仕方なく歩くしかない。


 廊下にはぽつりぽつりと人がいる。彼らは扉の前にいた人によく似ていた。静かで表情が読めず、不気味である。


 やがてふたりは広間のような場所へと辿り着いた。


「うわっ……すごい」


 そこには絵本でしか見たことがない動物や植物がいくつもあった。全身がふわふわ毛の丸い動物、にょろにょろと紫色の細長い動物、赤色の葉っぱや虹色の実がついた植木鉢。

 少し気が紛れそうだった。


「ほら、そこに並びなさい。すぐにあなたの出番だから」

「えっと……あの、私はこれからどうなるんですか? オークションって?」


 先週、オークションの意味を聞いてもアルティラは意地悪く笑うだけで答えてはくれなかった。だけど今日の彼女は機嫌がいいので、教えてくれるかもしれない。


「あなたがどうなるかですって? 知るわけないわよ。どうせ太った変態貴族のところにでも行くんじゃない? あなたにはお似合いよね。清々するわ」


 アルティラはそれだけ答えた。

その変態貴族に行く、という意味がよくわからない。不安に駆られる。アルティラは微笑んでいた。フリージアがうろたえるのを、心底楽しんでいる。


 そしていくつかの動物や植木鉢が連れていかれると、フリージアの番がきた。執事服を着た男の人が取り囲み、歩くよう命令する。アルティラはフリージアと一緒に来るわけではないらしい。


 少しだけ歩くと、大広間に着いた。大広間には数十人いて、登場したフリージアをじっと見つめる。なんだかじろじろ見られて居心地が悪かった。


 フリージアの隣にいた男の人が声を張り上げる。魔法を使っているようで、大広間にキンキン声が響き渡った。


「さぁ、本日の目玉商品です! 聖女ラニエスの正真正銘の末裔! 手塩にかけて育てた奴隷少女です! 詳細はお手元の冊子から――ガニエス金貨500枚からオークション開始します!」


 ほとんど何を言っているのかよくわからなかったけれど、ガニエス金貨500枚は相当な価値だ。アルティラが前に自慢していた綺麗な扇が金貨3枚だとかだったはず。


「俺は金貨700枚だ!」

「おっと、まずは金貨700枚!」

「850枚出す!」

「そちらからは金貨850枚!」


 熱狂的な掛け声で大広間が満たされる。


「……怖い」


 一体、自分はどうなってしまうのだろう?

 いよいよ不安で押し潰されそうになる。


 そんな中、大広間の最前列に――フリージアを厳しい目で見つめる男の人がいた。


(とっても綺麗……)


 長い黒髪と引き締まった顔立ち、きりっとつり上がった眉、そして吸い込まれそうな紅い瞳。座って腕を組んでいるだけで絵になる、そんな男の人だった。


 不安を紛らわそうと、フリージアはじっと彼を見る。どうせ他にやることもなかった。大広間の熱狂は高まっていく。


「金貨1500枚! 1500枚です!」


 しかし熱狂とは裏腹に、その最前列の男の視線が冷えて怖くなっているのに気付いた。そういえば、この紅い瞳の人だけは少しも声を上げていない。


「金貨2000枚! もういませんか!? 2000、2000で落札です!」

「待て」


 透き通るような声で紅い瞳の人が立ち上がった。

 熱狂の一瞬の間だった。誰もが動きを止め、紅い瞳の人を見る。


「茶番は終わりだ。私は王国騎士――この場の全員を逮捕する」


 そして会場の外から同時に何人もの人間が大広間に突撃して、魔法を放つ。

 それらの人たちが紅い瞳の騎士――ウェルナークの仲間と知ったのは、もう少し後のことだった。

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