第8話 人狼と人間

「アデラさま、具合はいかがですか」


 長椅子でぼんやりしていたアデラは、メイドのアンが呼びかける声で我にかえった。


「あっ、アン。ありがとう。大丈夫だよ」


 アデラはアンに支えられて立ちあがる。そのとき、アンの白い首筋を間近で見たが、「血を吸いたい」という衝動は感じなかった。


(さっきのは、相手がラウルだから、感じたのかな)


 アデラは、ラウルの人狼ワーウルフの耳と髪をなでているうちに、胸が激しくたかぶった。それから吸血衝動が起きた。


 アデラはこれまで孤児院の仕事以外で、他人に関わったり関心を持ったりしたことがなかった。魔物であることをひた隠し、周囲から距離を置いて、息を潜めて暮らしてきたのだ。


 自分以外の魔物は、街ですれ違ったり、目撃したりすることはあっても、積極的に交流する相手ではなかった。


 だが、ラウルが孤児院に来てからの二週間は違った。魔物であることを隠す必要もなく、分かり合える相手は初めてだった。アデラの中で、ラウルの存在は日増しに大きくなっていた。


 アデラはアンに手を引かれ、廊下を歩きながら思う。


(わたしって、やっぱり吸血鬼の仲間だったんだなぁ……)


 もちろん分かっていたことだが、改めて実感し、ショックを受けた。


 生まれてからずっと、血を吸ったことはなかった。吸いたいと思ったこともなかった。ついさっきまでは。


 吸血鬼はなぜ血を吸うのだろう。

 血を吸わないと生きていけないのだろうか。


 アデラが自問自答していたとき、ふいに声が聞こえた。


『きみは、こっちだよ』


 アデラは立ち止まる。

 アデラの手をひいていたアンが、何事かと振り返った。


「アデラさま、どうかなさいましたか」

「アン、声が聞こえなかった?」

「いいえ、何も聞こえませんよ」

「誰かに呼ばれた気がしたんだけど」


 あたりはアデラとアンのほかには誰もいない。幻聴だろうか。


 歩き出すと、また声がした。


『きみは、こっちだよ。人狼や人間とは一緒にいられないよ。だって吸血鬼だから』


 アデラはハッとして背後を見る。突き当たりのホールに、小さな影が見えた気がした。


 だが、目を凝らした途端、影は消えた。いまはもう気配はなく、声もしない。


「アデラさま?」

 アンが困惑している。

 アデラは深呼吸して、息を整える。

「アン、何でもない。行こう」


 アデラは再び歩き始めた。先ほどの小さな影は、まるで猫のようだったと思い返しながら。


  ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎


「さぁ、こちらが食堂ダイニングルームです。お入りください」

 アンがアデラを促す。


 アデラは食堂の広さに驚いた。孤児院の食堂の十倍くらいありそうだ。英国貴族の屋敷では、食堂とは、来客と晩餐を共にする社交場でもあるのだ。


 ラウルがアデラを出迎え、声をかける。

「アデラ、体調は大丈夫か」

「うん。心配かけちゃって、ごめんね」


 ラウルの後ろにはメリッサが控えていた。

 メリッサも獣人の姿だ。髪は亜麻色から銀色に変わり、獣の耳が突き出ている。人間の時より年長の十八歳くらいに見える。


「わ、メリッサちゃん。可愛い!」

 アデラは思わず声をあげた


 メリッサは紺色のドレスを着ていた。流行の細身のシルエットだ。髪に小さな帽子型の飾りが付いているのはファッションなのだろう。


 メリッサは顔を赤くして、そっぽをむく。

「子供じゃないんだから、あなたに可愛いと言われても、嬉しくないし」

「そ、そうだよね。でも人間のときも可愛いかったけど、獣人の姿もとても素敵だから。見とれちゃった」


 メリッサは口をとがらせて、早口に言った。

「アデラ。あなたって、思ったことをすぐ口に出すから苦手だわ。いかにも田舎者みたいで。でもいまのあなたは、ちょっとばかりきれいね。着替える前よりはね」


 その言葉を聞いてラウルがくすりと笑い、メリッサににらまれた。


 食堂の中央には磨き上げられたマホガニーのテーブルがあり、食器や花器が並んでいる。ナイフやフォークや燭台は、全てシルバーではなくゴールドだ。魔物は銀製品が苦手なためだ。


 食堂にはラウルとメリッサの他にもう二人いた。


 ひとりは、先ほど大広間で見かけた初老の男性だ。柔和な笑みを浮かべてアデラに挨拶する。

「屋敷の執事バトラーをしております。スティーヴン・フォーブスです。アデラさま、よろしくお願いします」


 ラウルが説明を加える。

「アデラ。スティーヴンは人間だ。ブラッドリー家は人間の屋敷ということになっているから。スティーヴンに対外的な折衝や、人間の使用人のまとめ役を頼んでいる」


「わたしはラウルさまのお父さまの代から、お仕えしております」

 スティーヴンはそう言って胸を張った。


 もうひとりは人狼だった。

 ラウルが紹介した。

「おれの右腕のケネスだ。屋敷では家令スチュワードとして、全体を取り仕切っている」


「ケネス・グレイです。よろしく」

 ケネスはラウルよりも長身で、体格もスマートだ。獣人の姿でありながら鼻眼鏡をかけていて、それが不思議と似合っている。


「あ、あの。アデラ・アーデリアンです。みなさん、よ、よろしく、お見知りおきのほどを!」

 アデラは背筋を伸ばして挨拶した。魔物である人狼が、人間の貴族社会に溶け込んでいることに、「すごいなぁ」と感心しながら。

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