第二章 魔物の居場所

第5話 隠れ家

 アデラは馬車に揺られていた。


 二頭立て四人乗りの四輪馬車バルーシュだ。

  

 これほど上等な馬車に乗ったのは初めてだ。アデラの労働者の服装だと浮いてしまうので、借り物のボンネットとショールで身を包み、幌を下ろした。


 アデラの隣りには少女が、向かいには少年が座っている。


 少年はラウルだ。シルクハットとコートを身につけていたが、どちらもブカブカだった。父親の服を持ち出して着たイタズラっ子にしか見えない。


 ラウルはシルクハットのつばを指で押し上げると、アデラの隣に座った少女に声をかけた。

「メリッサ、いいかげんに機嫌を直してくれ」

  

 メリッサと呼ばれた少女は、外出着の上からケープを羽織っている。景色を眺めながら、そっぽを向いて答えた。

「怒っているわけではありません」

 その声の調子は低くて静かだ。

  

「どう見ても怒っているだろう」

「いいえ。まったく連絡を寄こさないお兄さまの無神経さに、ただ呆れているだけですわ」

  

 メリッサはラウルの妹だ。

 数時間前。テムズ川の河畔で、アデラの前に現れたときは、狼の姿をしていた。


 いまは十代前半に見える可憐な外見だ。ボンネットからは、ふわふわの亜麻色の髪がのぞいている。

 アデラは、メリッサが人間の姿になったとき、あまりの愛らしさにまるで磁器人形ビスクドールだと思った。

  

 だが、メリッサに見とれて頬をゆるませたアデラに、当のメリッサは冷ややかに言い放った。

「それで、この妙な魔物は何?」


  ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎


 もう一頭の狼の名は、ウォルトという。いまは屈強な若い男の姿になり、御者として馬車を操っている。

  

 あのとき、監視者ウォーデンと対峙したラウルが発した遠吠えは、仲間を呼ぶ合図だったのだ。


 周辺で待機していたメリッサとウォルトは、遠吠えを聞いて駆けつけた。

 そして、テムズ川を渡って逃げた後、ラウルたちはメリッサが用意していた馬車に乗り込んだ。


 「ラウル。そういえば監視者は、あなたのことを人狼ワーウルフの王だって言ってたわ」

 兄妹のはずまぬ会話を引き取って、アデラがたずねた。

「王なんて大層なもんじゃない。せいぜい族長だな」

 ラウルが笑って答える。

  

 すると、メリッサが言った。

「いいえ、王です。お兄さまには、その自覚が少々足りないようですけどね」

「手厳しいな。おれだって、この国の人狼をまとめている自覚はあるぞ」

「自覚とは行動が伴わなければ意味がありません。貧民街をさまよって行方知れずになる王がどこにいますか」

  

「あのさ、メリッサちゃん。それはラウルがケガをしていたからで――」

 アデラが声をかけると、メリッサがキッとにらんだ。

「わたしの名をなれなれしく呼ばないでください!」

「ひっ、ごめんなさい!」

  

「お兄さま。こんな娘、テムズ川に捨ててきたらよかったのに。なんでわざわざ連れてきたのですか」

「だから言っただろう。アデラはおれの命の恩人なんだ。言葉に気をつけろ」

「吸血鬼なんて信用できません。そもそもいま倫敦ロンドンが混乱しているのは吸血鬼のせいでしょう」

「それはそうかもしれないが、アデラには関係ない」

  

 ラウルたちは、イーストエンドを離れ、馬車で人狼の隠れ家に向かっていた。

  

「あっ」

 突然、アデラが声をあげる。

 その声の大きさに、メリッサが驚いてびくりと身体を震わせる。

  

「ラウル、どうしよう」

「どうした。何かあったのか?」

「晩ご飯のジャガイモ、持ってきちゃった。それに、わたしが帰らなかったら、孤児院が大騒ぎになっちゃうよ」

「隠れ家についたら誰かに届けさせよう。アデラが帰らないこともうまく言いつくろっておくから、大丈夫だ」

「ホッ、よかったぁ」

  

「よくありません!」

 声を荒げたのはメリッサだ。「お兄さま、わざわざ届ける必要などありません。この吸血鬼をいますぐジャガイモごと降ろしなさい」

  

「あわわ……」

「メリッサ、そうカリカリするな。アデラをイーストエンドに戻すのは危険だ。それにアデラは吸血鬼じゃない。ダンピールだ」

「吸血鬼だろうとダンピールだろうと同じことです!」


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 そんなやり取りをしながらも、馬車は進む。やがてハイド・パークにほど近いケンジントンに着いた。貴族の屋敷が並ぶ閑静な一角だ。


 そのうちの一軒の大きな屋敷に馬車が入る。

「さぁ、着いたぞ」


 アデラは馬車を降りながら、キョロキョロと屋敷を見回した。

「嘘でしょ。こんな素晴らしいお屋敷が隠れ家なの?」

 アデラはイーストエンドとの違いに愕然とする。


「ここは、おれが所有している屋敷だ。といっても、父から譲り受けたんだが」

「わたし、隠れ家って言うから、森のほら穴とかかと思っていた」


 メリッサが嘆息をもらしながら言う。

「童話じゃあるまいし、狼だからって、ほら穴に住んでいるわけないでしょ。発想が貧しすぎるわよ」


 ラウルがアデラに説明した。

「この屋敷は、人間として住んでいるんだ。人間社会で暮らす以上、人狼にも安全な居場所が必要だからな。情報収集のために社交界ともつながりを持っておきたい」


「ラウルは人間の振りをしているの?」

「そうだ。屋敷の名義は、地主ジェントリのブラッドリー家だ。おれはこの屋敷では、人狼のラウル・リーではなく、人間のラウル・ブラッドリーとして生活しているのさ」

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